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竹内文書Ⅲ 第1章
超古代、日本語が世界共通語だった! 古代の日本民族とユダヤ民族の間に密接な関係があったと考える歴史研究者は多い。なかには日本人こそイスラエル王国滅亡とともに姿を消した「失われた十支族」の末裔であるとする説を唱える者までいる。こうした日ユ同祖論の有力な論拠としてよく挙げられるものの一つが、ヘブライ語と日本語の類似性であろう。 その一例を挙げてみよう。日本ではひどい寒さを「凍るようだ」というが、ヘブライ語でも「コオル」という。泣くことは「ハナク」といい、手を叩くことを日本語では拍手というが、ヘブライ語では「ハカシュ」という。 調べてみると他にも日本語と同音同意のヘブライ語は多く、確かに単なる偶然の一致ではなさそうだ。他にも、朝の挨拶は日本では「おはよう」だが、ヘブライ語では「ボケトフ」という。これは一見関係がないようだが、朝の「寝ぼけ」た状態を表したものだと考えれば、つながりが感じられる。 さて、こうした共通言語が偶然の一致でないとすると、問題となるのは日本語がヘブライ語の影響を受けたのか、ヘブライ語が日本語を取り入れたのかということだ。言語の類似性が挙げられながら、これまで両国の関係が立証されなかったのは、どちらの言葉が先に存在したのかがはっきりしていないからである。 だがその答えは、超古代世界の歴史を今に伝える「竹内文書」をひもとけば一目瞭然である。「竹内文書」には、地球上の全人類が日本の天皇の末裔であることがはっきりと記されている。日本は世界中のすべての国の「親国」であり、もともと天皇が各国の「民王」を任命していたのだとなれば、当然の言葉が文化と共に世界に広まったと考えるのが自然である。超古代世界では日本語が共通語だった。だがそれも、度重なる天変地異や天皇の権威が失われるにしたがって徐々に変化し、原型を留めるところはほとんどなくなってしまっている。大昔人類は一つの言葉を使っていたという伝説が世界各地に多く残っているのは、そうした事実があったからだ。 そのなかで最も有名なのが旧約聖書のバベルの塔の挿話であろう。旧約聖書では、バベルの塔が造られるまでは人類は皆同じ言葉を使っていたが、天を畏れぬ塔の建造に怒った神がバベルの塔を破壊するとともに人々の言葉を変えてしまったとある。この話が聖書の中に収録されているということは、信じるに足る事実があったはずなのだ。古代の人がいくら純朴だといっても、全くの作り話を鵜呑みにするほど不明ではないはずだ。どんなに不思議な伝説にも、必ずそれを裏づけるなんらかの事実が隠されているということをわれわれは忘れてはいけない。 事実、ユダヤ人が最初に歴史に登場するチグリス川の岸辺、メソポタミア文明である。そして、「竹内文書」によれば、メソポタミアに文明を築いたのは最初に天皇が派遣した十六人の皇子のうちの一人、ヨイロバアダムイブヒ赤人女祖氏である。旧約聖書に最初に描かれたアダムとイブというのも、このヨイロバアダムイブヒ赤人女祖氏にルーツがあったことをしめしていたのである 。ユダヤに日本語が比較的変化せずに残ったのは、古い戒律を大切にする民族性のためだろう。 わたしは今まで世界各地を回り、さまざまな方面から「竹内文書」の記述立証に努めてきた。その結果、世界中の国名や地名の中に超古代の日本語の名残を見つけることはできたが、ユダヤのように日本語を言語として持ち続けている民族を見つけることはできなかった。ところが、ユダヤ人以上に多くの日本語を持つ民族をついに発見したのだ。それがアメリカ・インディアンである。
ナバホ語も「アッチ」「コッチ」「ナンジ(汝)」・・・・同じ! 現在、アメリカ・インディアンのほとんどは昔ながらの自分たちの言葉を捨て、征服民族の言語を使用している(アメリカで彼らが生きていくためには、そうせざるをえない長く苦しい歴史がある)。そのため、インディアンの言葉の多くは失われ、残っている言葉もその語源や本体の意味を知る人は非常に少なくなってしまった。それでも、わたしの調べたところによると、十六世紀までアメリカ・インディアンが使っていた言葉は、まごうかたなき日本語であった。そして、話し言葉としては失われたそれらも、一部は地名やインディアンの部族名、人名として今もちゃんと残っているのだ。 わたしがこの事実に気づいたのは、運命的ともいえるある出来事がきっかけであった。 平成六年六月、わたしがホピ族の聖地メサに向かう途中のことである。アリゾナ砂漠での休憩時間、ナバホ・インディアンのガイドが英語で周辺を案内してくれていた。何げなく私が「あっちがブッラクメサですか?」と日本語で尋ねると、少し怪訝な表情をしながらもガイドはうなずいた。そのとき、わたしの足に大きな蟻が這い上がってきたので、誰に言うともなく「こっちには蟻が」と言うと、そのガイドが驚いて話しかけてきた。 詳しく話を聞いて驚いたのは私のほうだった。なんとナバホ・インディアンの言葉では遠くを「アッチ」、近くを「コッチ」、というのだというではないか。そのうえ、ナバホ語で「you(あなた)」は何というかと聞くと、答えは「ナンジ」であった。若い人には馴染みがないかもしれないが、「ナンジ(汝)」とは日本語の文語的表現で「あなた」を意味する言葉なのである。 またアリゾナでのペトログラフ学会に参加したおりにも、不思議なことが起きた。 それは友人である藤原由浩氏と近辺を観光していたとこのことで、彼は宇宙連合のコンタクトマンとして知られている人だが、わたしは古い付き合いなので気軽な道行きであった。その日は車で移動することになっており、運転は地理に詳しい現地の人にお願いすることになった。アメリカは日本と違い都市部を少し離れればほとんど渋滞の心配はない。車は目的地に向かって快適なドライブを続けていた。だが、いくらアメリカの田舎道とはいえ、制限速度はやはりあったのだ。先の方でネズミ捕りをしていることに気がついた藤原氏が、ドライバーに急いでそのことを知らせようとした。 「徐行! 徐行!」 焦っていたのだろう、運転しているのが現地の人であることも忘れ、彼は日本語で叫んでいた。ところが不思議なことに車はちゃんとスピードを落とし、無事ネズミ捕りを通過した。ほっと胸をなでおろすとともに、わたしと藤原氏は顔を見合わせてしまった。彼は確かに日本語で「徐行」と言ったのだ。それまでの会話の様子からいっても、ドライバーが日本語を知っているとはとても考えられなかった。それにもかかわらず車はスピードを落としたのだ。 「アッチ、コッチ、ナンジ」が通じたナホバ族のナカイ夫妻、右端は著者 味わい深い表情のナバホ族の老婆(「Portraits of Native Americans」より)
不思議に思って、ドライバーになぜスピードを落としたのかと尋ねると、われわれが全く予想しなかった答えが返ってきたではないか。なんと「ジョコウ」とは彼らの言葉でもゆっくり走るという意味だというのだ(正確には彼らはジョウコウと発音する)。 そのとき運転してくれたのは、アメリカ・インディアン、ナバホ族のウィリアム・ナカイという人物だった。 世界各地で超古代の日本の痕跡を調べているわたしは、これも間違いなく古代の日本語だと直感した。そこで、思いつくに任せ、いろいろな日本語の意味がわかるかどうか質問してみることにした。すると、わたしの予想を上回る規模で彼は日本語を正確に理解することができたのだ。 ついにユダヤ以外で日本語と同音同義語を残す民族を発見したのである。
インディアンに受け継がれた「和=輪をもって尊しとすべし」 ナホバ族は「徐行」の他にも多くの日本語を残していた。例えば、「アンジ(暗示)」という言葉の意味を彼らは次のように説明してくれた。 「アンジとは、例えば大地に虹がかかったとき、見えない大地の下にも同じような半円の虹があるだろうと想像すること」つまり、地上の虹が地下の虹を暗示しているというわけである。彼らのこうした説明は、かつて世界を統治していたころの日本の「和」の思想に酷似している。彼らは単に言葉だけでなく、その根底に流れる思想をもほぼ完全に継承していたのだ。 「竹内文書」が伝える超古代世界はすべてにおいて「和」なるものをよしとしていた。「和」は「輪」に通じ、円や球をも意味する。先ほどの「暗示」の説明は、虹の本来の姿は半円ではなく円であるはずだという考えに基づいている。このように、すべてのものの完全なる形は「和」=輪にあるとする発想が超古代にはあったのだ。 こうした「和」の思想はナホバ族だけのものではなく、広くインディアン全体に残っている。スー族の聖なる伝説でも同じことを伝えている。 「インディアンの行動はすべて円の中で行われている。それは、宇宙の力が円の形となって働き、すべてのものが円い形になろうとしているからだ。はるか昔に、われわれの部族が強く幸せであった頃、われわれの力はすべて聖なる輪から生まれていたのだ。そして、その輪が壊れない限り、部族は栄え続けた」はるか昔の幸せだった頃の輪の教え。ここでいう「輪」が「和」と等しいことは明らかだ。これは、超古代の天皇の統治時代の思想を伝えているといっていいだろう。 もう一つ、ここで特筆すべきは、インディアンの言葉のなかには日本語の熟語がナホバ族では使われていたということだ(先ほどの「暗示」の他にも「豊饒」という熟語がナホバ族では使われていた)。これは日本語の成り立ちを知るうえで非常に重大な発見といえる。 現在の日本語は、表意文字である漢字と表意文字であるひらがなを組み合わせて表記している。同音異義語の多い日本語のなかで、漢字は言葉の意味を伝達する上で重要な役割を果たしているが中でも熟語は少ない文字で多くの意味を表すことができるため、なくてはならないものになっている。 これまで熟語とは一般に、一時で意味をなす漢字を組み合わせ、それを音読みすることによって、最小限の音で最大の意味を伝達させようとした結果生み出されたものだと考えられていた。 ところが、漢字を持たないナバホ・インディアンが、日本語の熟語と同音同意の言葉を持っていたのである。これがどういう意味を持つかというと、熟語は漢字の組み合わせによって生まれたのではなく、もともと日本語としてあった言葉に漢字を当てはめたものだということになる。 これは、日本語と漢字の関係を根底から覆す大発見なのだ。なぜなら、漢字の発生以前に和文字が存在したと明白に指摘できるからである。今まで古代の日本は文字を持たず、中国から漢字を輸入し文明化したといわれていたのが、大きな間違いだったことになる。 「竹内文書」には中国の伝説の皇帝といわれる伏羲や親農が、不合第五十三代に日本の天皇より文字の作り方を習ったと記録されている。 漢字が日本に学んだ産物ならば当然のことながら、「竹内文書」に多数残されている神代文字の存在も無視できない問題となる。 わたしの友人であり古代研究家の高橋良典氏は、世界中の古代の絵文字や未解読文字のほとんどを日本語(神代文字)に当てはめることで解読に成功している。現在未解読の北米インディアンの文字がすべて解読され、超古代のアメリカの姿が明らかになる日もそう遠くないとわたしは思っている。
ブラジル開拓民が奥地で“元祖”日本人に出会った!? さらに調査を進めると、日本語を使っていたアメリカ・インディアンはナホバ族だけではないこともわかった。わたしがブラジルのサンパウロへ行ったとこのことである。当時「サンパウロ新聞」の社長をなさっていた故・水本水任氏に、お目にかかったときのことだ。 私はどこへ行っても初めての土地では、その土地の地名の由来を尋ねることにしている。そこで、このときも軽い気持ちで尋ねたのである。 「現在サンパウロといわれる土地は、もともとは現地の言葉で何という名前だったのですか?」 水本氏はちょっと考えた後、 私が突然そんなことを言ったかので、水本氏は少しためらいながらも、 なぜ突然そんなことを言ったかというと、実は北海道日高地方の平取(ぴらとり)町のハヨピラ、東北・仙台の大平(おおひら)、九州の大平(おおびら)などの地名から見て、「ぴら」という言葉が崖を表す古代語だと確信を得ていたからであった。さらに「イ」は「偉大」に通じることから「イピランガ」とは、「偉大な(大きな)崖」を意味する古代日本がだと直感したのである。 戸惑い顔の水本氏に前述のような説明をすると、大変感心なさって、翌日には早速ブラジルの先住民であるツピー・インディアンについて書かれた本をわざわざ持ってきてくださったほどであった。 この本は、ツピー・インディアンの言語にてついて書かれたポルトガル人の研究書をサンパウロ大学で読んだ日系人が、ツピー・インディアンの言語と日本とがあまりも似ているのに感銘を受け、自ら翻訳したという曰く付きのものであった。 日本人がブラジルに開拓移民として渡ってきたときの記録に、「奥地に行けば行くほど自分たちより古い日本人の入植者がいた」という非常に興味深いものがある。 それによれば、彼らは「ワラジ(草鞋)」を履き、「ミノ(蓑)」を着ていたという。さらには大きな果実を「カキ(柿)」と呼び、歪なものを「イビツ」といい、疑問文には言葉の最後に「~か?」と疑問符まで付けていというのだから、開拓移民が彼らを日本人だと思ったのも無理ない。 だが、その人たちは、日本人でなくツピー・インディアンだったのである。 ナホバ・インディアンとツピー・インディアン、たった二部族だけでもこれほど多くの日本語が見つかったということは、アメリカ・インディアンすべてを調べることができれば、「竹内文書」を裏づける新事実が他にも見つかるのではないだろうか。そう考えたわたしは四度にわたりアメリカ各地を訪ね、行く先々でインディアンの調査を重ねた。 その結果は、まさに驚嘆に値するものだった。 「古代、アメリカは日本だった!」(徳間書店刊、原題「AMERICA・・・LAND OF THE RISING SUN」)の著者ドン・R・スミサナ氏の車でカリフォルニア州サンディエゴを走っていたときのことである。 スミサナ氏によると、この地方のインディアンは石を積み上げた囲いを「イシベイ」と呼ぶというのである。わたしはアッケに取られてしまった。日本語の「石塀」がそのままインディアンに通用するのである。さらに調査を進めると、北米インディアンでは石器を表すのに「イシ」という言葉が広く使われていたこともわかった。 また、南米のインディアンは日干しレンガで作った塀を「アドベイ」というのだが、これが「天上塀」という日本語であることは明らかだ。日干しレンガは泥に植物繊維を混ぜレンガ状にしたものを天日で干し固めたものである。つまり、天日によって固めた土から作った塀だから、「天土塀」なのである。 こうした驚きにわたしはアメリカ各地で出会うことになった。そのなかでも最もショッキングだったのは、平成七年十二月、バージニア州で買ったインディアンの部族名の書かれたポスターをじっくり読んだときのことだ。部族名を一つ一つ丹念に読んでいってわたしは愕然としてしまった。なんと日本語で読めたのだ。 それからというもの私は、まるまる四日間を費やしてアメリカ・インディアンの部族名の解読に取り組んだ。そして、ついにすべての部族名を日本語で読むことに成功したのである。 十六世紀にヨーロッパが入ってくるまでアメリカ・インディアンは、日本語を使い、自然と共生する社会を築いていたのだ。そして調査を進めていくうちに、彼らの生活内容は縄文日本人のそれと驚くほど似たものだったこともわかったのである。
アナ瑚そのものが穴だった! 地名というのは、話し言葉と比べると変化しにくいものである。新しい民族がその地を占拠した後も、先住民の用いていたものがそのまま使われることが多い。日本でも、北海道の地名にアイヌ語が多く用いられているのがそのいい例であろう。わたしが旅先で地名を尋ねるのは、地名にネイティブな歴史が残されている場合が多いためである。 とはいっても、時がたてば言葉の意味や地名の由来は忘れられ、単なる固有名詞としか見られなくなってしまう。「稚内(わっかない)」「長万部(おしゃまんべ)」「標茶(しべちゃ)」これらは北海道の有名な地名だが、これらの言葉が何を意味しているのか、アイヌ語を学んだ人でもなければほとんど答えられる人はいないだろう。こうした現象はアメリカの地名においても全く同じであった。 わたしがバージニア州に住む友人ポール・カーを訪ねて、地図を頼りに日本語の残る地名を探していたときのことだ(ポールの奥さんは日本人なので、いろいろと微妙な日本語を通訳してくれ、今回の研究でもお世話になった)。 ポールの家の近くにレイク・アナ(Lake Anna)と呼ばれる湖があることに気がついたわたしは、期待を込めて彼に尋ねた。 「このレイク・アナというのはどんなところだい?多分近くに穴があると思うんだけれど、ポールは見たことはないかい」だが、彼の答えはわたしの期待を裏切るものだった。 「残念ながら近くに穴もないし、特に変わったところはないね。美しいただの湖だよ」 彼の答えにがっかりしていると、わたしたちの話をきいていたポールの父が、話に割り込んできた。 「ポール、お前は知らんかもしれないが、あの湖は実は人造湖なんだよ。今でこそ水を満々とたたえているが、昔は水のないただの穴だったんだ。その穴を利用して湖にしたっていうわけさ」 穴瑚そのものが穴だったとは!?期待を上回るその言葉に私は狂喜した。そこで(Anna)の由来を尋ねると、昔から地元の人間がそう言っていただけで、由来までわからないという。そこで、他の人にも聞いてみたが、現在満々と水をたたえた美しい湖の名前の由来を知る人は一人もいなかった。 だが逆に、意味が忘れられるほど昔からそこにあった大きな穴を、土地の人々が「アナ(Anna)」と呼んでいたと聞き、「アナ」が日本語の「穴」であることを私は確信した。わたしの興奮している様子を不思議そうに見ていたポールの父に、「Anna」が日本語で「穴」と同音同意語であることを説明すると、彼は驚きながらも「そういうことならば、わたしがインディアンを紹介しよう」を言い、わざわざ全米インディアン協会に電話をしてくれた。 そして会うことになったのが、全米インディアン協会の代表をしたこともあり、ディズニーの映画で世界的に有名になったポカホンタスの子孫に当たる人物、クリストファー・バール氏だった。このご縁によって今回のわたしの研究はおおきな成果を得ることになるのだが、それについては後で詳述することにしよう。 ポタホンタスの肖像画(油絵、1911年。ハワード・チャンドラー・クリスティ作、アメリカ・イラストレーターズ・ギャラリー=ニューヨーク所蔵) ポカホンタスの子孫の族長クリストファー・バール氏
地名に隠された日本語の読み方 さて、わたしは今回の調査の中で、地図や書籍に書かれた文字からも多くの日本語を見つけることができた。だが、古代の言葉を現代語から探すうえで、気をつけなければならないことが一つある。それは読み方である。例えば先に例に出した「稚内」「長万部」「標茶」といった北海道の地名もそうなのだが、現在使われている文字は元の言葉の音を写したもので、あくまでも当て字でしかないということだ。したがって、現在の読み方と言語では多少音が違ってくる場合があるということである。日本の場合では、言語と全く関係がない意味を持つ漢字が使われていることも多い。これもすべて言語の音だけを移したからにほかならない。 人間のヒアリング能力がいかにあいまいなものであるか、外国語を学ばれたことのある人ならばよくわかるだろう。日本人が中学生のときから英語を必死で勉強し、読み書きはなんとかできるようになっても会話は全くダメというのはよくあることだ。その原因も、書かれた文字と実際の発音とのギャップが埋められないところにある。耳慣れた英語でさえそうなのに、この場合、異民族が話す聞いたこともない言葉を耳で聞いた音だけで写し取るのだから、全く同じというわけにいかなくても、それは仕方がないことだ。 これはアルファベットを使っているアメリカでも全く同じであった。日本語を無理にアルファベットで表記したため、どうしてもローマ字表記になりやすい。そうなればどうしても日本語の音は失われてしまう。また、現在その地名を使うアメリカ人は、その文字を米語読みをしてしまうから、そこでもまた差が広がってしまうのだ。 例えば、アナ湖の近くの「ルイーズ」という山があるが、この山は日本語の「龍頭」山というのが原語であったことがわかった。「ルイーズ」がどうして「りゅうず」になるのか説明しよう。 この山は「Lewis」と書いて米語で「ルイーズ」と読む。だがこれをローマ字読みすると「りゅういず:龍頭」」になる。つまり「りゅうず」が米語であったとわかるのである。 この山の名は「ルイーズ」という人名にちなんだものだという説も現地で耳にしたが、わたしは「龍頭」説を裏づけるものをこの山で発見しているのだ。この山にある「リュウレイ」という名の洞窟だ。龍頭山のリュウレイ、これは御神体とした「龍霊」、つまり龍神をこの地で祭っていた証拠である。(事実、わたしがその地を訪れたとき、立派な龍雲が空に表れていた)。 「龍霊」洞窟の入口看板
このような視点でアメリカの地図を開くと、驚いたことに地名のほとんどが日本語として読み解くことができるのである。 ミズーリ(Missouri)は水売り、マイアミ(Miami)は箕網、イリノイ(Illinois)は入りの江、カンザス(Kansas)は簪、ポーツマン(Portsmouth)は穂田富ます、バージニア州のナンサチコ(Nansatico)は南西地区、等々。数え上げたら限りがないほどである。(ちなみに、スミサナ氏はカンザスを関西と解釈しているが、わたしがこれをあえて簪としたのはちゃんと理由がある。この地方に住む部族には髪を左右に結んだオサゲ族やオカッパ族が住んでおり、地名も髪形にちなんでつけられた可能性が高いからである)。 さらに、それらは日本語で読むことができるというだけでなく、レイク・アナの例でもわかるように、ちゃんとその土地の特徴や民族の伝承と意味を表していたことも調査の結果明らかになっている。 アルイテ、アサゲ、ナバホ、アナサジ、オジオバ、オタワ・・・・・ インディアンの部族名がこれまで何を意味しているのかわかる者はいなかった。当のインディアン自身にとってすら謎だったのである。だが、これを日本語として見直してみると、そこには非常に多くのメッセージが込められていることがわかった。 そのメッセージは実にさまざまである。民族の長い歴史であったり、部族の身体的特徴であったり住んでいる場所や作っている作物を伝えていくものまであった。 例えばアルイテ(ALEUT)族という名は、彼らが大昔ベーリング海峡を歩いて渡って着たことを伝えているし、オサゲ(OSAGE)族は日本人にもなじみの深いおさげの髪形にちなんで名づけられたものである。ホピ(HOPI)族は「竹内文書」にも登場する須佐之男命の御子・穂日命の末裔であることを示しているのだろう。 他にもある。ナバホ(NAVAJO)族は頭のAが失われてしまっているが、本来は「アナバホ」で穴場に居を構えていたことに由来している。なぜならナバホ族はアナサジ(ANASAZI)族とも呼ばれ、これは日本の海幸・山幸に対する穴幸(穴居生活をしていた民族)を表す言葉だからである。オジオバ(OJIBWA)族は部族民の顔立ちが天皇の伯父伯母に似ているものが多かったのであろう。その隣のオタワ(OTTAWA)族は、こんなところに居ったわと天皇が驚いたのだろう。豊かな川の近くに住む部族はトムカワ(TONKAWA)族とし、「富む川」への感謝を意味している。玉を売っていた部族はタマウリペック(TAMAULIPEC)族、暇そうにしていたものにはピマ(PIMA)族という名がつけられている。 肌の色の濃い民はイロコイ(IROQUOI)族、オカッパ頭はカッパ(QUAPAW)族、美しい簪を付けたカンサ(KANSA)族。足に細いリボンを結んだアシニリボン(ASSINIBON)族。 しぐさからつけられた部族名もある。ベチャベチャと漫談をするようにおもしろい話をしていたのはマンダン(MANDAN)族、はしゃぎすいてコラッと怒られたコーラ(COORA)族、静かで考え深いチンシアン(CHINSIAN)族、タバコが好きで隣の人に火をもらってばかりいたヒダトサ(HIDATOSA)族。ショーネ(SHAWNEE)族は根性が座っていたのだろう。負けず嫌いのマケンズエ(MACKENZIE)族や、気弱なキヨワ(KIOWA)族もいる。数え上げたら限りがない。 こうした部族の名も天皇によって直接つけられたものなのであろう。意味はわからなくなっても、どの部族も自分たちの部族名を大切に受け継いでいる。 そして、こうした部族名も日本語の意味を裏づける物的証拠も残っているのだ。 特徴的な髪形で有名なモヒカン(MOHICAN)族という部族がいるが、この「モヒカン」の意味が何であるか知っている人はいない。「モヒカン」の日本語の意味は「墓碑環」であった。その証拠に、彼らの部落の近くには古代の墓碑と見られるストーンサークルが見つかっているのだ。先祖の墓碑であるストーンサークルを守る彼らの姿を愛でた天皇が、先祖を敬う心の大切さを残すためにこの名をつけたのであろう。 モヒカン(墓碑環)族のストーンサークル(AMERICA’S STONEHENGEのパンフット表紙より)
また、ポーハタン(POWHATAN)族の女性族長を取材したときのことである。わたしが「ポーハタン」という名は日本語の「棒と旗」に由来するものと思われると言うと、彼らはびっくりして指さした。そこは家の入り口で、部族の象徴として棒に三十二枚の羽飾りが飾られていたのである。その棒は真っ赤に塗られており、「竹内文書」にインディアンの先祖は赤人(ヒウケエビロスボストン赤人民王)とあるのと一致している。羽が旗の代用品であることは明らかだ。わたしの仮説は実に劇的に立証されたのである。 だが、何よりもわたしが感激したのは、彼女の名刺に「RED(赤)」の文字があり、自分たちが五色人の中の赤人であることが誇りを持って記されていたことであった。実際彼女の肌は赤いと表現されるにふさわしい色をしていた。 赤い棒に32枚の羽根がついたポーハッタン(棒旗)族に先祖代々伝わったシンボル 赤人(RED)の名を持つポーハタンの族長とともに
だが、このポーハッタンという名にはもう一つの意味が込められていたようだ。というのも、ポーハッタン族とその近くに住む部族の名を続けて読むと、そこにはまるで予言のような一つの文章が現れるのである。 その一帯に住むインディアンの部族名を挙げてみよう。まず、コノイ(CONOY)族、ツスカロラ(TUSCARORA)族、ポーハッタン族、そしてチェロキー(CHEROKEE)族である。これらの名をローマ字読みすると、コノヨ族、ツヅカロカ族、ポーハッタン族、ケロケー族となる。これを続けて読むと「この世(はいつまで)続くだろうか、もう破綻(する、日本に)帰ろうか」となる。あまりいい予言とはいえないが、インディアンがヨーロッパから移住してきた人々に国を奪われてしまったことを思えば、この予言に的中したともいえる。 さらに付け加えるなら、一七世紀のイギリス侵入時に最初に破壊的な痛手を受けたのがこのポーハタン族だったのである。ポーハッタン族の悲しい運命を天皇は知っていてこの名をつけたのだろうか。 土足で踏み込んできた西洋白人たちが、日本系縄文インディアンたちを次々と殺戮していった(「The Powhatan Tribes」より)
「竹内文書」は日本の皇室の歴史を記録したものである。そのため、予言じみたことはほとんど記されていないが、天皇が信託を受けた記録はいくらか残っている。つまり、超古代の天皇が神の力を受け、未来を見通すことができた可能性はあるのだ。そう考えれば、インディアンの部族名もあるいは超古代の天皇が残した予言だったといえるかもしれない。 地名・人名を日本語から読み解くインディアンの生活 インディアンの部族名が、彼らの歴史を伝えてくれるものであることはご理解いただけたことと思う。同様に、地名や人名もまた彼らの生活をわれわれに伝えてくれるものであった。 特にアメリカの東海岸は古代から豊かな土地であったらしく、作物にちなんだ名前が多く残っていた。 ポタワトミ(POTAWATOMI)は「穂田は富み」、オネイダ(ONEIDA)は「恩栄田」、オンオンダガ(ONONDAGA)は「恩恩田賀」と読める。これらはすべて豊かな稲穂が実っていたことを表した地名なのだ。 インディアンに米を食べる習慣があることはあまり知られていないが、ポーハタン族をはじめとする東海岸北部からミシシッピー中流域の部族は、昔からライスフィールドと呼ばれる野生種に近い水稲を食していたのである。超古代のアメリカは米食が非常に盛んだったらしく、お粥食の存在を思わせるカユガ(CAYUGA)族や、日本の郷土料理の一つである「わっぱ飯」を作っていたことを伝えるワッパノーグ(WAMPANOAG)という名前まで残っているのだ。 ワッパノーグの近くにはマサチューセッツ(MASSACHUSETTS)つまり、鱒の集まる瀬戸があった。鱒の季節になるとマサチューセッツで採った鱒を具にしたわっぱ飯を古代のインディアンたちが食べていたとは、想像するだけでも楽しい気持ちになってくるのではないか。 カヌーで水稲(ライフフィールド)の稲刈りをするインディアン。
籾分け作業をする超古代、米食が盛んだったことをしのばせる (「The Traveler’s Guide to Native Amerida」より)
また、この辺には土地が豊かなためか人々の暮らしが楽だったことを伝える名も多く残っている。不老長寿を表すフロー(HURON)族、その名のとおり何も問題がなかったのであろうモンタガナイス(MONTAGNAIS)族などである。 このほかにも、栗が多くとれた土地はクリーク(クリーク)、渡りの季節に雁が並ぶ瀬戸にはナラガンセッツ(NARRAGANSET)という名が残り、昔をしのばせてくれる。
名は体を表す!? 部族名(「Portraits of Native Americans」より) 左: ピマ (暇)族 右: クーリー (栗)族 左: クロウ (苦労)族 右: アパッチ (アッパレ)族 左: イヨワ (意弱)族 右: ホピ (穂日)族
人名はさらに興味深い事実を教えてくれる。 インディアンが自分たちで書いた記録は残っていないため、現在われわれがインディアンについて知ろうとしたら、口伝の物語を十六世紀以降に白人が書き残したわずかばかりの記録に頼るしかない。しかし、日本語で彼らの名前を見直すと、記録からだけでは知ることのできない過去の姿がありありとわかってくるのである。 土地の豊かさは地名だけでなく、人名にも現れている。なんとウエロワンサ(werowance)という名が残っているのだ。豊かな大地は植えれば植えるだけの収穫があったのだろう。人々がもっと植えろもっと植えろと、畑仕事に精をだしていた姿がこの名からは浮かんでくる。自分たちの子孫が畑を広げ、わんさと苗を植えることを願ってつけた名前である。 天皇の御前でイーグルの羽根を付けて舞った族長は、天皇から「もっと飛べ、もっと飛べ」という励ましのお言葉をいただき、それ以来モットトベー(MOTO-TOPE)と名乗ったのであろう。 だが残っているのは、こうした穏やかな名前ばかりではない。 十七世紀、イギリス人と戦ったポーハッタン族にオッペチャンカノウ(OPECHANCANUGH)という名の勇者がいた。今までこの勇者の名前の意味を考えたものはいなかったが、日本人ならこの名前に込められたポーハッタン族の願いがおわかりいだだけるのではないだろうか。「オッペチャカノウ」、わかりやすくいうと「追い返すことが可能だ」となる。彼らは自分たちの勇者が侵略者を追い返してくれることを願ってそう名づけたのだろう。この他にも同時期に「タタカウベ(TATACOOPE)」という名の勇者の記録も残っている。彼らは自分たちの豊かな土地を守るために部族の祈りを背負って戦った。しかし、戦いを好まない平和社会を営んでいたインディアンが、近代兵器を有した侵略者に勝てるはずもなかった。勇者の奮戦もむなしくその部族名が示すとおり彼らは破綻してしまったのであった。 残念なことだが、現在ポーハタン族の人々は自分たちの古い言葉をすっかり忘れてしまっている。彼らの歴史を記した本の挿絵に大きなよだれ掛けのような服を着た人物が描かれていた。その解説には「部族の聖職者、クイヨウグヨゴスフク(QUIYOUGHCOSUCK)」と書かれていた。クイヨウグヨゴスクフク、つまり「食べるときに用いる汚すための服」エプロンである。聖職者とあるのは、書き写した人が、ほかの部族民がほとんど裸なのにその人がたまたま食事時か何かで、エプロンをしていたのを、珍しい格好をしているというだけで聖職者と勘違いしてしまったのだろう。 右: エプロン姿のクイヨウグヨゴフク (「The Powhatan Tribes」より) 中: モットトベー (「The NATIVE AMERICANS」より) 左: ウエロワンサ (The Powhatan Tribes」より)
だが、こうしたことでさえ自分たちの言葉を失ったポーハタン族の人々にはわからないのだ。わたしが日本語で彼らの言葉の意味を一つ一つ説明していくと、目を丸くして驚くばかりで、自分たちにはアルファベットで綴られた古いポーハタン族の言葉を読むことすらできないと悲しそうな目で語った。彼らに残っているのは語り継がれた伝説と、生活習慣だけである。そして、その生活習慣さえも、日本のアイヌと同様、現代社会の中では維持し続けることが難しくなってきているのだ。
アメリカ・インディアン部族名 / 日本語対応表
最後のインディアン、イシ(石器作りの名人)の日本的生活 アメリカ・インディアンが石を「イシ」と言っていたことはすでに触れたが、なんとこの「イシ」を名前としていたインディアンがいたのだ。 彼は来たカリフォルニアのオロヴェルの地で、最後まで自分たちの生活・文化を捨てずに伝統的な生活を守り続けた。そのため彼は最後のインディアンと呼ばれている。 現在オロヴェルには全米一の巨大ダムが造られ、昔の面影はないが、ダム記念館の一角に彼の生活ぶりを紹介するコーナーが残されている。 なぜ彼が「イシ」と名乗ったのか、わたしは疑問に思いながら彼の展示物を見ていた。すると驚くべきことに、残された資料を見る限りは明らかに石器時代そのままの石器をつくっていたのだ。そう、多分彼が石を上手に使いこなしたので、イシと呼ばれるようになったのだろう。 彼は弓矢で狩りをし、川で魚を捕らえ、獲物を石器でさばいた。だが、彼の使っていた道具で私の興味を引いたのは石器だけでなかった。 イシ・ミュージアムにての著者。「イシ」の肖像とともに
その第一は魚を入れる籠であった。日本で釣りをしたときに魚を入れておく魚籠にそっくりの籠。それに彼が住んでいた場所の地名は、なんと「ヤナ(YANA)」というのだ。釣りに詳しい人なら知っていると思うが、日本語で「ヤナ(簗)」とは、川に木や竹などを並べて魚を捕える仕掛けのことである。現在インディアンが日本と同じ梁を使っていた物質証拠はないが、多分この場所は魚を捕る梁場だったためにこうした名がのこったのだろう。 他にもイシに代表されるアメリカ・インディアンの生活から日本を感じ取れるものがあった。斧である。木の皮などをはぐのにイシが用いた道具に「ハショタ(HATCHHET)」というものがあった。これは日本で「手斧(ちょうな)」と呼ばれる大工道具にそっくりである。それに英語でも全く同じ「ハショッター」という言葉が使われていたのだ。 日本の手斧も語源は「はしょるなた」であったとも考えられる。また、日本語で省略することを「はしょる」というのも、これは削るというところから発展した言葉の可能性もある。英語のショットもハショッタの変化したもので、削られて小さくなったものを短いという意味で現在も使っているのではないか。 いずれにしても「石」同様に「ハショッタ」も日本から世界に広まった言葉であったことは、間違いないだろう。 ハショタと呼ばれる手斧 そういえば、アメリカ・インディアンは、ファイアー・ボートと呼ばれる木の板を用い摩擦の力を利用して火をおこしていたのだ。私は驚いた。これと同様なものを神祭りの神具に使っている神社を知っていたからだ。 しかもその神社とは日本の皇室の氏神、天照大御神を主祭神とする伊勢神宮なのである。現在も神代からの伝統を守る伊勢神宮の神事では、このインディアンと全く同じ方法で祭事に用いる火をおこしているのだ。つまり、この方法も日本からアメリカ・インディアンの先祖に伝えらえたものだったのである。 伊勢神宮に伝わる火おこしの儀式に使われる道具 伊勢神宮の火おこしの儀式 アメリカ・インディアンの祖先も全く同じ方法で火をおこしていた。日本人が移動して伝えたといわれている
龍神を祭ったインディアンの拝み石 このオロヴェル(Orovelle)という地名だが、オロはとは金、ヴェルには村という意味がある。つまり「金の村」である。そのオロヴェル古名は「コンコウ(KONKOW)」と地図にあった。 わたしはこれを聞いてすぐにコンコウとは金鋼であることがわかった。まさにオロヴェルと同じ意味を持っているのではないか。金の村とは金鉱のある村ということだったのだ。わたしはこのことに気づいたとき、それこそ金鉱を見つけたようにうれしかった。日本とアメリカ・インディアンを結ぶ絆がまた太くなったのだ。 だが、そこでわたしをさらに驚かせたのは、記念館の庭に置かれた一つの岩であった。 この岩は初めからここにあったのか、それとも後から誰かが運んだのか定かではないのだが、この岩には明らかにペロトグラフで龍神が描かれていたのだ。 岩の周りには大きな石がごろごろしており、私は直感でここが磐座であることを感じ取った。その磐座の中心になっているのが、この岩なのである。近寄ってみると、岩の頂上に丸いくぼみがあり、そこから蛇行した曲線が、岩の真ん中あたりから連続菱形をなし下の方まで彫られているのがはっきりと確認できた。その連続菱形紋の右隣には雷雨を表すようなギザギザ模様と無数の直線が刻まれている。 「間違いない。これは龍神のお姿を現したものだ!右に描かれたギザギザと直線は龍神のお力の現れである雨と雷を、連続菱形紋はきっと龍体だ!」確信したわたしが、水を頂点のくぼみに注ぐと、どうだろう、その水は曲線を伝い、菱形をなぞり、岩の上にくっきりと龍神の姿を浮かび上がられたではないか。 実をいうと、最初はわたしも連続菱形紋がなぜ龍を表すのか、すぐにわからなかった。しかし不思議なもので、後日シャワーを浴びているときに、マヤの人々が連続菱形紋で龍の鱗をかたどっていたことを思いだしたのだ。日本の家紋にも三角形を重ね合わせた鱗紋というのがあるが、アメリカ・インディアンは三角を二つ合わせた菱形を連続させることによって、龍の胴体を表したのだ。わたしがこのことに気がついたのも、シャワーをあびていたときだ、まさに水を司る龍神のお力といえるだろう。 奇しくもオロヴェル地方は現在「カリフォルニア州の水瓶」と言われる場所である。その水がなによりも重要視される地に、それもダムに見下ろす丘の上に、この龍神岩に巡りあうことができたのは、「イシの博物館にペトログラフがあるんでご案内しましょうか」と言うヘンリー・アイハラ氏の一言があってのことだった。アイハラ氏はオロヴェルでマクロビオテックのヴェガ・インスティチュートを指導している人物である。 わたしがこの岩の意味を説明すると、アイハラ氏の奥様は毎月一日と十五日、この龍神岩にお赤飯を供えて大切にお参りをしてくださると約束してくれた。アメリカの龍神様も、この岩を彫ったインディアンの先祖もさぞかし喜んでくださることだろう。なにしろこの聖地には多くのストーンサークルが発見されており、インディアンの祖霊が祭られた場所でもあるのだ。カリフォルニアの水瓶・オロヴェルのダム記念館にある龍のペオログラフが刻まれた”刻み石” カリフォルニアの水瓶の・記念館のペロログラフが刻まれた”刻み岩”の脇に立つ著者
また驚いたことに、このような岩のことをアメリカの学術用語では「オガム(OGHAM)」というのだそうだ。信じがたいことだが、これは本当である。これが日本語の「拝む」からきていることは間違いない。インディアンたちは、龍神を祭りカリフォルニアの豊かな実りを願って、まさにこの岩を拝んだのだろう。 さらにこの記念館の中庭は円形なのだが、そこは敷石を使って十六光条がデザインされているのだ。龍神を祭る岩、十六光条がデザインされた中庭、ここはまさしくカリフォルニアの水瓶を守る聖地といえるだろう。誰がこの記念館をデザインしたのかはわからないし、もしデザインした本人に確かめることができたとしても、理由は「偶然」の一言で終わるかもしれない。しかし、こういう偶然の陰にわたしは神の見えざる加護を感じざるをえないのだ。 ちなみに、この龍神岩のペトログラフは、わたしの友人でもある日本におけるペトログラフ研究の第一人者である吉田信啓先生を通じて、日本ピトログラフ協会にも報告させていただいた。 記念館の中庭は円形にデザインされている なぜか、記念館の中庭ははっきりと十六光条に石が敷きつめられている 龍神岩の周囲のストーンサークルを調べる著者 |