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竹内文書Ⅰ   第1章

人類の正史「竹内文書」
竹内文書とは

 

 

三千億年前を伝える世界最古の歴史書

広大な宇宙に星が生まれた。 神々は自らが造りし星、「地球」に降臨した。 神々は五色の人を造り、文明を授け、人は大地に充ちていった。 こうした宇宙の創世から始まり、神々の地球降臨、人類の発祥といった地球人類の歴史を綴った世界最古の古文書がある。

皇祖皇太神宮の管長職の血筋、竹内家に代々伝えられてきた古文書を集積した「竹内文書」である。 竹内文書を読み解くと、人類の歴史は、私たちが現代の学校教育で習ったようなものとは、大きく異なっていることがわかる。 現代人は、今の文明が人類史上最高に進化した文明であると思っているが、それは大きな間違いである。むしろ現代の文明は退化してしまっていたのである。 人類の歴史は、天変地異と戦いの歴史であった。竹内文書には、人類が現代に至るまでに経験した百回以上の天変地異の記録が克明に残されている。 ムー、アトランティスといった伝説で知られている超古代文明も、確かに存在していたと記録にある。しかし、その文明も天変地異によって崩壊してしまっている。このことは竹内文書のみならず、現代文明をもってしても作ることは難しいといわれる古代の遺跡や遺物が、その存在を証明している。 つまり、竹内文書は日本の天皇家を中心に書かれた日本の正史であるとともに、地球上の全人類の正史でもあったのである。

 

竹内文書と竹内家

茨城県磯原(北茨城市)にある皇祖皇太神宮は、竹内文書によると、天神五代に始まった祭祀をルーツとする日本で最も古い宮である。この神宮の管長職を代々世襲している竹内家に秘蔵されていた古文書類が、いわゆる「竹内文書」である。

一般に「竹内文書」または「竹内文献」と呼ばれているこれらの古文書類は、きちんとした一冊のものにまとまっているわけでない。つまり「竹内文書」とは、竹内家に伝わる神代からの歴史資料の総称なのである。

竹内文書の主な構成は、天神時代より、神武天皇までの神代皇統譜、数十種類におよぶ神代文字の表、太古の世界地図、竹内家の系図などである。その内容は、空間的には宇宙を包括し、時間的には宇宙創世から現在につながる歴史の時代までと、天文的なものである。これは、世界中のどの古文献にも類を見ないほど、雄大なスケールで展開されている歴史書なのである。

文献以外にも、皇祖皇太神宮には神代の歴史を知るうえで欠かせない資料となる、数々のご神宝も残されている。

まず代表的なのが、地球外物質を原材料とする謎の金属、ヒヒイロカネで造られた剣と鏡である。剣は、須佐之男命がヤマタノオロチを退治して手に入れたといわれる、皇室の三種の神器のひとつ「天叢雲剣」。鏡は、同じく三種の神器のひとつで、伊勢の皇大神宮のご神体である「八咫の鏡」。皇祖皇太神宮に伝わるものは、そうした三種の神器の原型であるともいわれている。ほかにも神武天皇以前の天皇のお骨を砕いて、特殊な技法で造られたご神骨像が七十六体、古代のイスラエルの預言者モーセの「十戒石」、キリスト教の始祖イエス・キリストのご両親のご神骨像など、世界にも類を見ない貴重なご神宝類がある。

 

竹内文書は古事記以前の歴史書である

竹内文書の原典は神代文字で書かれており、その成立年代は不明である。しかし、私たちが竹内文書と呼んでいる文書類は、竹内宿禰(武内宿禰)の孫である平群真鳥が、当時中国から入って来た漢字を用いて、漢字カナ混じりに書き改めたものであることがわかっている。

平群真鳥が竹内文書を書き改めたのは神倭朝二十六代・武烈天皇の御代、つまり五世紀の後半であり、これは、日本最古の文書とされる「古事記」の成立年代より二百年以上も前ということになる。

竹内文書の時代区分は、大きく四つに分かれている。 天神七代、神七代、上古二十五代、不合朝七十三代、そして現在の天皇にいたる神倭朝である。

神倭朝以前は(記紀で最初の天皇とされる神武天皇以前)は、現代の人類の創造を遥かに絶する、高度な文明に支えられた世界国家の時代であった。日本の天皇はそのまま世界の天皇であり、すべての人類が天皇の下にひとつのまとまりを見せていたのである。しかし、その世界国家も、上古時代の後半から不合朝時代にかけて立て続けに起こった天変地異によって崩壊し、それに伴って天皇の権威も失われていってしまうのである。

さて、竹内文書に用いられていたという神代文字とは、漢字以前にあった日本の文字のことである。神代文字は数十種類であるといわれ、「あいうえお」の五十音で伝承されている。この神代文字の存在を疑う人もあるが、そういう方は、現在の天皇家が祀る伊勢の皇大神宮の伊勢神宮文庫の図書館へ行って、神代文字四部門百六十三番九十九通というのを出していただくとよい。漢字伝来以前に日本に文字はなかったと古事記、日本書記でいっていた稗田阿礼、藤原鎌足が、神代文字で書いた和歌を伊勢神宮に奉納している。和歌だけではなく、奉納文やお札に書かれた神代文字もあり、これらは竹内文書の神代文字対応表で読むことができる。こうした点でも、現在の日本の歴史は、大きな矛盾を含んでいるといえる。

 

皇祖皇太神宮の歴史

竹内文書を伝承してきた皇祖皇太神宮は、天神五代に「天神霊ませる」とあり、神霊を祀った場所として、その存在をうかがわせている。社のある宮としては、天神六代、天孫降臨とともに飛騨高山の位山に「天神人祖一神宮」として創設させたものである。

それが、上古一代に富山に移り、上古十代・高皇産霊身光天皇の御代には、元無極躰主王大神より歴代の天皇をはじめ、今上帝、皇后、皇子、皇族系を合祭し、本殿を改修している。そして「皇祖皇太神宮」と名を改称し、天皇を中心とする日本人のための宮としている。同時に、五色人(日本から分かれた五つの人種)九十八柱を祀り、「別祖太神宮」を創設し、五色人のための宮としたのである。

天皇が祭主を務め、隆盛を極めた皇祖皇太神宮も、天皇の権威の喪失により力を失い、神倭朝二十五代の任兼天皇が、「皇祖皇太神宮大祭礼」を行ったのを最後に、衰退の一途をたどることになる。特に、竹内文書秘蔵後は時の権力者からの弾圧もあり、宮を保つことができなくなるほどであった。こうして、宮が失われ、人々の記憶から竹内文書の存在は忘れられていった。しかし、竹内家では、天皇の命を守り、ご神宝を代々秘蔵し続けていたのであった。

 

竹内文書公開をめぐる波紋

竹内文書の公開と竹内巨麿

いつの世も真実の歴史は、時の権力によって改ざんされる運命をもっている。竹内文書も例外ではなかったが、天皇の命のもと、真実を残すために秘蔵されたのであった。秘蔵された文書はさまざまであるが、古いものはこうぞ、みつまたなどを材料とした、動物のなめし皮のようにも見える極めて丈夫な和紙に、黒々とした墨も美しい神代文字で書かれていた。その和紙にニスのようなものを塗って、巻物状にし、銅管に入れて油紙をかぶせ、さらに大きな壺や瓶に納めて、土中深く埋めるという手の込んだ法で保管してきた。

竹内家の人々は「ときいたらば、皇室に奉還すべき」宝として、代々命をかけてこれらの宝を秘守してきたのである。事実、竹内家には、何人もの神主が、時の勢力から地中のご神宝を守るために命を落としたという記録が残っているのである。

竹内家の記録によれば、地中に埋蔵保管した古文書は、そのままでは汚損してしまうので、ときどき虫干しを行い、数代ごとに書き改めながら伝えられてきたそうだ。そのためか、竹内文書は後世になって作られた偽書であるという人もあるが、そうでないことはこの後、順を追って解説していきたいと思う。

秘蔵させていた竹内文書を再び世に出したのは、竹内宿禰(武内宿禰)から数えて六十六代目の子孫、竹内巨麿であった。

竹内巨麿は明治四十三年、もともと越中にあった皇祖皇太神宮を、そこから真東に当たる茨城県磯原に再興した。皇祖皇太神宮玉津教の設立である。そして、信仰の中心として代々秘蔵してきたご神宝・古文書類の公開に踏み切ったのであった。

この皇祖皇太神宮再興の祖ともいうべき竹内巨麿に関しては、紙面の都合もありここでは述べないが、ご興味のある方は、嗣子義宮氏(現皇祖皇太神宮管長)の書かれた竹内巨麿伝「デハ話ソウ」を参照されたい。

満を持しての竹内文書公開であったが、このことはさまざまな方面に波紋をなげかけることとなった。

 

天津教不敬罪事件と文書の焼失

皇祖皇太神宮天津教が信仰の中心としてきた竹内文書とご神宝の存在が、国民信仰の中心である伊勢の皇大神宮をはじめとする諸神社に対して不敬に当たるとして、竹内巨麿は起訴された。昭和十一年四月のことである。

昭和十七年三月、これに対し、水戸地方裁判所は有罪の判決を下した。裁判は東京控訴院(現高等裁判所)にもちこまれ、昭和十八年一月、そこでも有罪の判決が下る。しかし、昭和十九年一二月の大審院(現高等裁判所)では一転し、巨麿および神宮の無罪が認められたのである。

この裁判を勝ち抜くために、皇祖皇太神宮からは、「神宮神祠不敬被告事件上告趣意書」が提出されている。これは、ご神宝を含む竹内文書約四千点の研究と、史跡などの現地調査の報告からなるものであった。大審院はこの趣意書をもって、「この事件は裁判所の権限を越えた宗教上の問題である」という無罪の判決を下したのである。

しかし、このとき大審院に証拠として押収されていたご神宝を含む約四千点の竹内文書は、裁判が終了してもすぐに返還がかなわず、昭和二十年三月の東京大空襲によって、焼失してしまったのであった。あまりに残念なことである。

現在、私たちが竹内文書として読むことができるのは、竹内巨麿が克明に書き残した写しの一部にしかすぎない。これだけでも膨大な量ではあるが、この他にも今はもう見ることができない失われた資料も多数存在していたのである。その中には、天皇の先祖が外宇宙から地球に降臨したときの乗り物である天空浮船の設計図もあったというから返す返すもその焼失が惜しまれる。

そう考えると、我々は現代にいたるまでの長い間、命をかけて竹内文書とご神宝を秘守してきた、先人たちの魂に感謝の思いを忘れてはならないであろう。

 

皇祖皇太神宮年表

年代

特筆備考

天神五代天皇を祭主とし、岐阜県大野郡久久野山に天神霊ませる
天神六代天神人祖一神宮を、飛騨・位山に開く
上古一代天神人祖一神宮を、富山に移す
上古二代五色人の大根元祖「上古一代天皇」の御神体造る
上古三代上代天皇の御名、万国巡幸、万国主勅定の書誌神体
上古四代神宮の本殿社前の方位に、ニワトリトマリ鳥居を建立。天神一代~四代の歴史を御神体として奉納
上古一〇代皇祖皇太神宮と改称。天神一代~一〇代までの皇族系図を合祀。宮の屋根をヒヒイロカネで葺くなど、本殿改造別祖太神宮を建立。五色人の九八柱を祀る。
上古一一代上代歴史を編纂し奉納。七皇子に命じた万国地図も奉納
上古一四代宮城の四方に鳥居を建て勧請
上古一五代一代~一四代までの上古の神の歴史を編纂、御神体としたまう
上古一七代五色人王・五色旗を奉納
上古一八代祈願殿を新造、ニヰヤ宮「二宮」と称し、後、「ヲク井殿」、再度改め「ヲク日宮」と称する。ヒヒイロカネのホド文字、ミド文字、万国地図を刻んだ宝剣を造り、御神体とする
上古一九代分霊殿造営、「東岩瀬大神宮」と称する
上古二〇代剣矛を作り奉納
上古二一代本殿、前殿、四方の鳥居を御造替
上古二三代天皇神幽り給い(崩御し)、御遺体を葬儀する場合は、皇祖皇太神宮の神主をその祭主とすべきことを定める
上古二四代御船代と真の三柱神を祭る方を、上古二代の祭式法に倣うよう定める。神籬立瓶を神宮に納祭
上古二五代大遷宮祭を行う。「思兼命」祭司長、「児屋根命」、「太玉命」祭宮の元、五色人王三八〇名参拝 大祭礼に必ず深湯祭、鎮火祭、釜鳴祭を神主により術行。上下万民の安泰祈祭すべしとの詔を賜う
不合一代一六菊花紋を天皇の紋と定め、日の丸を国旗に制定。皇祖皇太神宮の紋も定め、併せて石に刻す 屋根を鵜草にて葺き合わせる
不合三代天日神より、天皇に、「今より人の命、二〇〇〇歳以下に定める」旨、神勅あり。天皇、泣かしめる 先世代無極天下万国に一人天皇、大神の神体神宝に、「国民、五色人よ、そむくなよ。そむくと天地明神に見かぎられるぞ」との神勅受く
不合二三代皇祖皇太神宮の神官を、今後「竹内家」に限ると定め、余人に竹内姓の使用を禁じる
不合二七代信託により、「五〇年ごと、または天皇の代わるたびに、皇祖皇太神宮を造りかえること」を定める 屋根はヒヒイロカネをもって葺き、祭主は皇子を当てることも定める
不合三四代天国天下一人天皇の御宝をすべて秘蔵することを命じ、皇祖皇太神宮神主の世襲を定める
不合六二代皇祖皇太神宮を「一の宮」、丹波別伊勢岩屋神社を「二の宮」、日向高千穂二上神社を「三の宮」とし、各宮の神主に、皇子を任ず
不合六九代白石を用いて、赤池白竜神の身形神体大小二個を作り、祭る
神倭一代大和・畝傍山の皇祖皇太神宮分宮の大前にて、神武天皇即位
神倭一二代神主・武雄心親王(武内宿禰の父)、イエスに諸学を教える
神倭一六代神宮の地中に神代、上代の万宝を秘蔵 神主・竹内宿禰、景行天皇の勅使として、万国巡廻を行う
神倭二二代雄略天皇の御世、上代の即位式礼を終える
神倭二五代仁兼天皇の御世,天皇御親祭終わる 「御馬皇子」祭主、万国棟梁「皇祖皇太神宮」の勅祭主、「御馬皇子」並びに、神主「竹内真鳥」にて謹祭す
神倭一二三代一八九二年、皇祖皇太神宮第六六代管長・竹内巨麿、養父の死に際し、神宝をもって上京 一九一〇年、現在の北茨城市磯原に、皇祖皇太神宮を再興
神倭一二五代一九三六年、竹内巨麿、不敬罪等の容疑により検挙される。神宝、資料多数、当局により押収される
一九四四年、大審院(現最高裁)にて無罪判決
一九四五年、空襲により、文書、神宝焼失
一九六五年、竹内巨麿、没
六七代管長・竹内義宮、散佚した資料を編纂、「神代の万国史」を出版
巨麿三男・高畠吉邦神主、天神人祖一神宮の任を受ける