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竹内文書Ⅲ プロローグ

 

アメリカン・インディアンのルーツは超古代の天皇

 日本には、世界史の謎を解き明かす人類最古の文献資料が存在している。それが「竹内文書」である。

 人類はどこで生まれ、どのようにして文明を築きあげてきたのだろうか。現在一応の定説はあるものの、それだけでは説明のつかない部分も実際には意外と多い。しかし、「竹内文書」には宇宙の創世から人類の誕生、そして超古代のもと繁栄を極め、やがて衰退していった地球の姿が、実に克明に描かれているのだ。

 宇宙の創世を知り得た人間が存在するなどありえない、と思われる方は多いだろう。だが現代人も、見知らぬ宇宙の創世を、科学の名を借りてまことしやかに解き明かしているではないか。われわれは、現代科学は決して絶対ではないということを忘れてはいけない。科学的常識とは、常に書き換えられる可能性を秘めた仮設でしかないのだ。ところで、人は一度たどり着いた結論に固執する傾向を持っている。そのため新時代の先駆者は常に「異端」の汚名を被るのである。「竹内文書」もまた明治四十三年(一九一〇年)の一般公開以来、そのスケールの大きさと現代史学とのギャップゆえ「異端」の道を歩かされてきた。

 そして、日中戦争が勃発した昭和一二年(一九三七年)、皇室のルーツに触れる内容が不敬罪に当たるとして世の批判したことが注目を集め、裁判で無実が確定したにもかかわらず偽書のイメージが定着してしまった。

 歴史学は多数派で決まるようなものではないはずだ。にもかかわらず、現在の歴史学は対立する諸説の中で、より多くの支持者を得たものが正当とされているのが現状である。昔、地動説を唱えたガリレオ・ガリレイは異端者として教会を追われるとき、「それでも地球は回っている」とつぶやいたといわれている。人が認めようが認めまいが、真実はたった一つである。

 これまでわたしは、「竹内文書」に記された歴史を信じ、世界中の歴史資料の調査研究をするとともに、フィールドワークを重ねてきた。世界中を自分の足で歩き、自分の目で見てきた研究結果は、机上では知りえない多くの新事実をわたしに教えてくれた。

 その一端は、「超図解 竹内文書」「超図解 竹内文書Ⅱ」というタイトルで平成七年(一九九五年)に徳間書店よりすでに出版されている。これらの著書は、日本のみならず世界史的に見ても貴重な文献が日本に現存しているということを多くの人に知っていただくために、グローバルな視点で検証を進めてきたものである。そして、この当初は、現代史学の洗礼を受けた多くの読者からご支持をいただくことで果たすことができたと感じている。さらに平成八年には、これらの著作が、地道なジャーナリズム活動に贈られるJLNAブロンズ賞特別賞を受けるに至り、社会的にもある程度認知されることができたと自負している。

 

JLNAブロンズ賞授賞式に列席する著者(中央の白い服)

 そこで、本書では、「竹内文書」の記述のなかでも焦点をアメリカ・インディアンと縄文日本のつながりに絞り、「親国」日本と「枝国」である諸外国の関係を詳しく検証することを試みた。つまり、アメリカ・インディアンが「竹内文書」に記されていたとおり、日本から派遣された天皇の皇子たちの末裔であったことを言葉や文化の類似から立証したのである。

 

天皇顕影と神政復興を望むインディアン

今この研究成果を公表するにあたり、わたしは一つの感慨に浸っている。なぜなら、アメリカ・インディアンとの運命的な出会いは、もう二十年近くも前の昭和五十三年のことである。エーリッヒ・フォン・デニケンが主宰する古代宇宙飛行士協会の世界大会に参加するためにシカゴを訪れていた私は、偶然入った本屋で「TAKEUTI DOCUMENTS(タケウチ ドキュメント)」と題する小冊子に出会った。なんと驚いたことにその本は、第三文明会会長の小笠原宏次氏が主宰する言霊インスティチュート中園雅尋先生が書いた「竹内文書」の英語版概略書であった。

 内容は神代文字の存在や古代日本の天皇が世界を統治していたことなど、竹内文書の概略をごく簡単に紹介したものであったが、当時まだ日本でも知名度の低かった「竹内文書」をアメリカで紹介している人がいたことは大変な驚きであった。正直いって、この本でアメリカは救われたという思いがしたほどである。

 異国で思いがけず同志に巡り会ったわたしは、早速著者に中園先生に連絡をとり、スケジュールの合間を縫って言霊インスティチュートのあるニューメキシコ州のサンタフェへと向かった。

 中園先生とわたしは、会うなり意気投合し、ほぼ二日間ぶっ通しでそれぞれの研究成果を語り合った。その中で、当時小笠原氏と中園氏は真の言霊を世に出そうと活動なさっていることを知ったわたしは、かねてから気になっていた言霊に関する疑問をぶつけてみることにした。

 今は亡くなられた故・佐藤氏が、日月神から受けた「続・日月神示」(林道明=天地の会出版)というものの中に「ムウアヤワタカマナハラナヤサワ」という言霊が登場する。この「タカマナハラ」とは日本神話や祝詞に登場する神々の住まう地「高天原」のことで、一般的に「タカマガハラ」と濁ってはならない音だと日月神はいうのである。たった一字の違いぐらいと思われる方もあるかもしれないが、言霊とは日本語の一音一音に霊的な働きを見いだすものであるため、一音の違いは決定的な違いになってしまうのだ。

 特にここで問題にされていた「マガ」という音は「禍・曲(が)」つまり災いや不吉なことに通じる力を持つため、これは言霊的に絶対に改めなければならない音なのである。わたしもこの説に賛成するものだが、知る限りでは「続・日月神示」以外では言霊的見地から「タカマナハラ」説を述べたものを見たことがなく、一度他の研究家の意見を伺いたいと思っていたのである。しかし、中園先生は言霊的にはあくまでも「タカマガハラ」であると主張なさり、残念ながらこの話では意見の一致をみなかった。

 

『TAKEUTI DOCUMENTS』の表紙

 アメリカで言霊教育の中心となるべき重要なセンターが「マガ(禍)」を採用していたのでは、言霊の正しい力が働くことができないと感じたわたしは、たった一人ででも正しい言霊で神に世界平和の祈りを捧げようと決心した。そして翌日、中園先生の家を後にした私は、一人で祈りを捧げるためにロッキーの山に向かった。だからそのときは、そこで思いもかけない約束を、思いもかけない相手からとすることになるとは夢にも思わなかったのである。

 ニューメキシコ州のサンタフェ、ロッキー山中の広い場所を選び、「ムウアヤワタカマナハラナヤサワ」と正しい言霊で世界平和を祈っていたときである。なんとわたしの脳裏にインディアンの先祖と名乗る霊が語りかけてきたのだ。「我ら一同日本の神政復興に馳せ惨じたい。語りたくも語り尽くせぬこの思い、汝らは世界平和を祈るけれど、我らを祭らずしてなぜ世界平和がくるのぞ。このロッキーに五色人の真の祭りの場を作ってほしい。汝は約束を果たすと思うから、汝の家系を調べたうえの頼みであるぞ」

 「竹内文書」を研究していたわたしには、彼らが日本から派遣されインディアンの先祖となった天皇ゆかりの方々であることがすぐにわかった。彼らの言った「いろひと」=五色人ということばがそれを物語っていた。五色人とは「竹内文書」にある超古代の人類の総称である。これは人類を肌の色にちなみ、五色(白・黄・赤・青・黒)人と称したことに基づいている。

 つまり、彼らは、天皇の存在が世界の人々に忘れられていることを嘆き、神政復興に力を尽くしたいと申し出たのだった。超古代、理想的な平和社会を実現させた「神政」、つまり天皇による世界統治こそが、人間が世界平和をなしうる唯一の方法なのである。

 そこでわたしはしばし考えたすえ、次のように答えた。

「日の本に真の五色人の祭り場なくして、なぜロッキーに真の祭り場ができましょう。必ずや日の本に真の祭りの場を作りますので、それまでいましばらくお待ちいただきたい」

 そう言った後、真の言霊で再び太陽・月・地球をひとつに貫く祈りを捧げ、大地に頭を垂れ、その場の小石を拾い上げ、

「その御心を日本までお連れしますので、どうぞこの石にお鎮まりください」

と申し上げた。インディアンの祖先霊はわたしの申し出に喜び、御霊をロッキーの石に鎮められた。数えてみるとインディアンの祖霊を宿した石は三十六個に達していた。

 その後わたしたちは「キバ」と呼ばれるインディアンの祈りの場を訪ねた。キバは地下にあるためハシゴで出入りする。中には照明設備はなく、外界の音からも光からも遮断された祈りのための空間である。わたしはその中で古代のインディアンに思いを馳せた。

 ところが、キバから出て来た私に異変が起きた。どうしたことか口から和歌が出たのである。それまでは和歌など詠んだこともないし、自分でも何を言いたいのかわからないにもかかわらず、よどみなく和歌が朗々と出てくるのである。

「あまつかみ わすれじたかみね くもはらし たいこのひびき あまつかなでん(天津神 忘れじ高峰 雲晴らし 太古の響き 天津奏でん)」

 その後は移動中のバスの中でも次から次と和歌が飛び出し、なぜアメリカのこんなところでふだん詠んだこともない和歌が出てくるのだろうと不思議で仕方なかった。今にして思えばこの和歌は、インディアンの祖霊が詠んだものだったのだろう。

 こいうしてわたしはインディアンの御霊石を持って、日本へ戻ることになったのである。

 

「位山」地に復興した真の五色人の祭り

学会を無事に終了し成田空港に着くやいなや、わたしは、持って来たロッキーの御霊石に「日本のどこの土になられたいか」とお尋ねした。すると、即座に、「位山」という答えが脳裏に響くではないか。位山とは、岐阜県の高山にある霊山で、「竹内文書」に天皇が初めて地球に降り立った場所と記録されている聖なる山である。そこでわたしは、ロッキーの御霊石三十六個に、位山の古代遺跡「祭壇石」にお鎮まりいただくことにした。

 ロッキーの御霊石と位山を訪れた日は、あいにく厚い雲が天をおおっていた。ところが、祈りを捧げ始めると、曇っていた天が割れ、光が割れ、光がカーテンのように降り注いだかと思うと、「主座建立は、まずこの祭壇石を水平にすることからぞ」

という声が天から響いた。しかし、祭壇石を水平にと言われても「はい、そうですか」と簡単に応じるわけにはいかない。なにしろ祭壇石は巨大なクレーンでもなければとてもうごかせないほどの巨石である。

 そこで、同行してくれた人たちと、具体的な祭壇石水平プロジェクトについていろいろと話し合ったが、結論は意外な方向で収まった。というのも、自分たちが言葉の表面上の意味にのみとらわれ、言葉の本当の意味を理解していなかったことがわかったからである。「祭壇石を水平にする」ということは、実際に祭壇石を動かすということではなく、人類発祥の地である日本に住む人の心を水平にするという意味だったのである。水平な心とは鏡と同じで、神の心を歪めることなく映し出す澄んだ心のことだ。

 お告げの真意を悟ったわたしは、この位山の地で日本人の水平となることを祈願して、真の五色人の祭りを行うことにした。祭りの日は十月十日と定めた。これは、水平な心に天からの光がまっすぐに差し込むイメージに基づいた日程である。

 さらに、祭りを真の五色人のものとするための工夫がいくつもなされた。まず一般の神祭りで用いられている白・黄・赤・青・紫の五色の幕を、本来の五色である白・黄・赤・青・黒に改めた。もともとのこの五色の肌の色を表しているのだから、真の五色人の祭りでは紫ではなく黒が用いられなければならないのだ。また、言霊の面でも、正しい言霊「タカマナハラ」を盛り込んだ祝詞を新たに作成することにし、飛騨一宮・位山を御神体とする水無神社の神主さんにお願いして実現した。もちろん参加者の宗教は一切問わず、世界平和を目指す多くの方々に自由にご参加いただくことにした。祭りには準備期間が短かったにもかかわらず、大本教や阿蘇幣立宮、世界真光文明教団、宗教真光の関係者、さらに当日位山へ行けという声を聞いたという霊能者など、宗派を超えた人々が三十人以上も参列する盛大なものとなった。

 その後もわたしは、一人でも多くの方に超古代の真実を理解していただきたいと、研究発表とフィールドワークを重ねてきた。この度、アメリカ・インディアンのルーツが日本の天皇にあることの証しの一端をご紹介することができたのも、日本にそれを受け入れるだけの下地ができた結果といえるだろう。わたしもこれでやっとインディアンの先祖霊との約束を果たすことができ、長年の荷を降ろしたような気持ちがしている。

 これにより「竹内文書」の内容をより深く理解いただき、世界に真の五色人の祭り場が再建され、二十一世紀にふさわしい神政復興の道が開けることを切に祈る次第である。

 なお、本書の執筆にあたっては大変多くの方々のご協力をいただいた。アメリカ取材でのアースレポート社の柳楽かおるさん、また現地でのカリフォルニアやマヤ調査のコーディネートをしてくれたドイツ系アメリカ人のレナーテ・オーレンバッハさん、そして特に貴重な土器を快く提供してくださった青森郷土館の福田友之様、常にわたしの研究を支えて下さる皇祖皇太神宮の竹内義宮管長にはこの場を借りて深くお礼を申し上げたい。

 

 平成九年七月吉日

高坂和導

 

位山にて、祭壇石での五色人の祭り(昭和53年10月10日)