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竹内文書 II: 第1章 (パート2)

 

竹内文書に記された万国巡幸の記録とその意味

聖書のアダムとイブはアダムイブという民主だった

 竹内文書の記録には、歴史や伝説上の有名な人物がたくさん登場する。旧約聖書の創世記に出てくるアダムとイブもそうした人物のひとりである。

 聖書によると、アダムとイブは神が最初につくった人間である。最初、神が造った楽園「エデンの園」で幸せに暮らしていたが、悪魔にだまされ、神との約束を破って知恵の木を食べてしまう。ふたりは神の怒りを買い、エデンの園を追われてしまう。

 このアダムとイブが竹内文書では、民王として登場するのだ。

「天目降美天皇即位八億五千万年、ウベコ月円一日(四月十一日)、詔し自身万国巡幸、支那広東着し、華夷唐古氏早刻に参朝し、天皇詔して国守を命ず。天皇詔して天竺尊者賜ふ。天皇即位十億三千万年、サナヘ月立十日(五月十日)、予泉都国ヒレフレ山に天降り、天日天皇大前ひ参朝、アダムイブ赤人民王、コラトマムルス白人民王、カンボチャ青人民王拝礼し、天皇詔して、五色人居所の国守に命ず」

 これは上古六代・天目降美天皇の万国巡幸の記録である。アダムイブはここで天皇より国守に任命されている。すでに気づかれた方も多いと思うが、竹内文書ではアダムイブはひとりの人物であり、聖書のように一組の男女として登場するわけではない。

聖書の創世記に登場するアダムとイブは、もともと赤人の祖であったアダムとイブ赤人民王の名に由来する。

アダムイブが竹内文書に最初に登場するのはもっと古い。上古二代、地球を一六分割し、それぞれに一六人の皇子皇女を派遣したが、その皇子たちのうちのひとりが最初のアダムイブだったのである。つまり、その後登場するアダムイブという人物は、代々の民王としてその名を襲名したのだと思われる。  聖書でアダムイブが楽園を追われる話があるが、これは天国である日本から海外に派遣されたことを意味している。また、アダムイブが一組の男女として伝えられたのも、赤人がアダムイブの遺伝子をもとに造られた人類であったことを考えれば、納得がいく。つまり、自分たちの生みの親ともいえるアダムイブを、両親としてとらえたのである。そういう意味では、やはりアダムイブはヨーロッパ最初の人類なのである。

上古6代・天日降美天皇の万国巡幸図

 

① 広東(華夷、唐古)

② インド占城(カララエ尊者=インド黒人王は天竺尊者の名をもらう)

③ ヨーロッパのヒレフレ山(アダムイブ赤人民王、コラトマムス白人民王、カンボチャ青人民王任命)

④ アフリカ、スイダンのキネアビンダ(ヌヒア祖氏は国守任命)

⑤ オイスリアのバイス(バインタサクフ民王は国守任命)

⑥ メキシコのガイマス(フィラデルフィヤ民王が拝礼)

⑦ ブラジリア(アルヘンチナチレ氏来朝し国守任命)

⑧ 大湊浜(奥州、青森県)釜臥山

⑨ 富山の天神人祖一神宮に帰国奉告祭

 

最多巡幸記録をもつ天皇

 一代に一度、行われていた万国巡幸であるが、訪問国はその都度違っている。はっきりと記録にはないが、神勅によって決められていたのかもしれない。わずか一、二国しか行っていない天皇もあり、代による格差がかなりあるからである。

最も多くの国を訪れたのは、上古二十五代・天津彦火出見身光天津日嗣天皇である。

「天皇即位五十何年ウベコ月円七日(四月十七日)、詔して万国巡幸、天皇天空浮船磐楠舟三十二舟造りて乗り巡視」

天空浮船三十二隻を新たに造営して万国巡幸を行ったというのである。それだけでも、かなり大規模な巡幸だったことがうかがえる。訪問地三十か所、十万年を費やした大巡幸であった。

上古二十五代といえば、上古最後の代である。世界各国の王が独自に権力を持ち始め、世界天皇の統治にかげりが出始めていた時期である。天皇の威信を回復し世界情勢を立て直すため、かつてないほど大がかりな万国巡幸が行われたのではないだろうか。

 その証拠にこのときの万国巡幸では、訪れる先々で盛大な歓迎式典が開かれている。これは天皇をこころより歓迎するというより、各国の力を誇示していたと見るのが妥当だろう。そんな状況の中で、天皇は新しく任命した国守に地方自治のあり方を指導している。これも、万国各地の政治がすでに天皇の志とは、大きく離れてしまっていたことをうかがわせる話だ。

 こうして世界天皇の威信をかけた万国巡幸であったが、時代の大きな流れに逆らうことはできなかった。世界天皇の時代といわれる上古はこの二十五代で終わりを告げ、混乱の不合朝へと入っていくのである。

上古25代・天津彦火出見天皇の万国巡幸図

 

  1. 八幡岳天降る
  2. 日高縁豊居山に御臨幸
  3. 黒龍江ウドスキヒ天降る
  4. キャフタ売買城御臨幸、支那守任す、30名集まり大楽奏す
  5. アフスタン、カブール(カブイル)天降る
  6. バクー水門御臨幸
  7. ローマ国ニアヤツシ天降る
  8. フランクフルト(フライグ)天降り、国令に政治法教しめ給う
  9. マラガ天降り、32名、五色王拝礼
  10. アトラス山(アマフリラス)天降り
  11. スーダン(スイダボン)天降り、五色人、1000名拝礼楽奏す
  12. アクラ(ギネアウイラ)天降り、ウイラ氏拝礼
  13. アラビ、モカ(モハ)天降り、モハラ国王に命令
  14. オマーン(オマイン)、スル天降り、スルヲ国令命す
  15. 天竺カラチ水門へ天降、黒人王5名拝礼
  16. バトナ御臨幸、ハイヤ国守命令す
  17. バモー天降り、120名大花ささぐ
  18. 雲南天降り、国の政治法教しむ
  19. 南昌御臨幸
  20. マラッカ水門天降り、オイスト国守命す
  21. メートランド(メイトラント)天降り、五色人男女3000名、四拝八平手
  22. ヘンチナバラナ天降り、五色人王11名拝礼大楽舞奏、イトランを国令命す
  23. ブラジルのバラ御臨幸、五色人31名花をささぐ
  24. マガンゲ御臨幸
  25. グアテマラ天降り、五色人拝礼
  26. ミキシコ、モレリア御臨幸
  27. トロント天降り、五色人83名四拝八平手
  28. ダルス(ツルス)天降り、一族18名礼拝
  29. クワツベル御臨幸、ペル王命す
  30. タマコ水門より天浮舟で帰る
  31. 佐井焼山へ帰京す

 

神武天皇の東征は人材と文化の逆輸入が目的だった

 神武天皇の東征に関しては、さまざまな説が飛びかっている。

神武天皇は日本人ではなく朝鮮半島から渡って来た人物で、東征自体も外国軍の日本進攻の記録であるという説。

 また、神武天皇は実存せず、海外の伝説だけが日本に伝わったとする説もある。神武天皇=アレキサンダー大王説はそのいい例である。この説は、アレキサンダー大王の東方大遠征の際、戦いの最中にカラスに導かれて勝利するというモリーフが登場するのだが、同様のモチーフが神武天皇の東征にも見られることに由来している。

神倭1代・神武天皇の万国巡幸図

  1. 陸前桃生女川水門(宮城県女川)
  2. アジチカモカ(キチジンスク)
  3. 黒龍江(黒龍江)
  4. 蒙古(モンゴル)
  5. バミル高原(パミール高原)
  6. ウラルスク(ウラリスク)
  7. キエフ(キエフ)
  8. エタリア(イタリア)
  9. スイタン(スーダン)
  10. カメルン(カメルーン)
  11. アビシニア(アビジャン)
  12. ガララ(エジプト)
  13. アラビ(サウジアラビア)
  14. オマイン(オマーン)
  15. スル(スール)
  16. 天竺カラト(カラート)
  17. デイリ(デリー)
  18. バトナ(パトナー)
  19. バルマ(ビルマ)
  20. シャム(タイ)
  21. 高原
  22. 福州
  23. 興化湾水門
  24. 厚狭水門(山口県厚狭川)

 いずれにせよ神武天皇にまつわる謎が多いのは事実である。では、竹内文書ではどうであろうか。  竹内文書では神武天皇は、不合七十一代・天照国照日子百日臼杵天皇の第二子として登場する。そして、父天皇の跡を継いだ兄・彦五瀬天皇が病弱だったため、皇位を譲り受けることとなる。初め不合七十三代を名乗るが、御歳百歳になったのを記念し、皇祖皇太神宮において神倭朝一代を宣言する。これが現代まで続く神倭朝の始まりである。

 さて、神武天皇は即位四十九年二月二十六日から、二十二年かけて万国巡幸を行っている。供の者は八十名、現在の中国から中国アジアを通り、アフリカ、インドを経て帰国している。

 この神武天皇の東征が、外国人の侵入といわれるようになってしまったのには利用があった。ちょうどこのころは大きな天変地異が地球を襲った直後で、ただでさえ国力の落ちていた日本は壊滅的なダメージを受けていた。そこで神武天皇は、日本の文化を復興させるために、万国巡幸の際、比較的ダメージの少ない国から文化と人材の逆輸入を図ったのである。

 そのため、神武天皇の帰国とともに、大勢の外国人が日本へやってくることになったのである。日本の文化復興を第一義とした神武天皇は、外国人と外国文化を重用した。その甲斐あって、日本の文化は短期間で復興した。しかし、その反面、歴史は改ざんされ、すべての文化の元が日本にあったことも、天皇が万国を統治していたことも忘れられていくことになったのである。

 つまり、日本の文化復興を目指した神武天皇の外国文化重用政策が、神武天皇外国人説を生んだのであった。しかし、これはとんでもない誤りで、神武天皇は竹内文書の記録にあるように、万世一系の天皇のお血筋であることは間違いない。

 

最後の万国巡幸は、現代の外交に近いもの

 神倭十二代・景行天皇の御代に、最後の万国巡幸は行われた。しかし、最後の万国巡幸を行ったのは天皇ではなかった。天皇の勅命を受け、名代として旅立ったのは、竹内宿禰であった。国内ではちょうど日本武尊が活躍した時代である。国内の争いさえ収めきれず、天皇は日本を離れることができなくなっていたものと思われる。

「天皇即位二十三年、奥州の今別の港より、六月十五日海の大船で出立、天浮船三舟を造り持ちゆく」

 竹内宿禰は、天空浮船を携え、海路大型船で万国を巡った。二十七年かけているが万国巡幸とは名ばかりで、各地の王を任命することもなければ、これといった業績を上げてもいない。

 むしろ、この巡幸は超古代の万国巡幸より、現代の親善外交に近いものがあったのではないだろうか。世界国家の中心という立場を失った日本という小国がどのようにして生き残るか。和の心で国造りをしてきた日本は、武力で押されればひとたまりもない。何とか世界の国々と強調して国を保ちたい。そんな天皇の願いと日本の運命を一身に背負ったのが、竹内宿禰だったのである。

 その例として、竹内宿禰は中国を訪れた際、支那国祖を祭る奉天に拝礼している。竹内宿禰は全権を委任された天皇の名代である。その人物が拝礼していたということは天皇が枝国の国守を拝礼したことと等しいのである。竹内宿禰がそこまでして守ろうとしたのは、日本の平和であり、天皇家の血筋であった。いつか天皇が再び世界を統治する日がやってくる。それを信じればこそ、彼は長い年月をかけて万国を巡ったのである。

竹内宿禰

竹内宿禰の万国巡幸図

竹内宿禰の万国巡幸図

 

天皇の御陵と超古代の神葬の記録が物語るものは

世界中に残る天皇の御陵

古代の天皇に御陵といって真っ先に思い出すのは、仁徳天皇陵などを代表とする古墳だろう。しかし、それよりもっと以前、上古や不合朝の天皇の御陵はどこにあったのだろうか。

 竹内文書には、御陵の場所がかなり詳細に記録されている。上古時代天皇の業績が一代ごとにまとめて書かれているのに、御陵の場所だけは一世ごとに明記されているのだ。

 そして、驚くべきことにそれらの御陵の場所は、世界中に散らばっているのである。

 一例に上古二代・造化気万男天皇を見てみよう。

初世――――越根中国トトノヤマ(日本、立山)

 二世――――アジチ国天竺カンチェン山宮(インド)

 三世――――道路奥蔵王山宮(日本、蔵王)

四世――――伊勢津国元取山宮(日本、伊勢)

五世――――滝宮山(不明)

六世――――天越根中日玉国ニヰヤの天神(日本、富山)

七世――――ヨモツ国モンブラン山宮(スイス)

八世――――ヨモツ国モンブラン山宮(スイス)

九世――――ヒナタエビルス国、アコンカグア山宮(南米)

十世――――台湾ニイタカ山宮(台湾)

十一世―――インド、エウスト山(エベレスト=現チョモランマ)

十二世―――伊勢津媛国の見大山宮(日本、伊勢)

十三世―――アフアリ国、アトラス山アル(アフリカ)

十四世―――ヒナタエビルス国、アンデス山ラバス(南米、アンデス)

十五世―――オストラリ国ヘルフ山メルボルン宮(オーストラリア、メルボルン)

十六世―――ヒウケエビルス国、マッキンレ山宮(アメリカ、マッキンリー)

十七世―――ヒウケエビルス国ロキ山宮(アメリカ、ロッキー山脈)

十八世―――アジチヨアン国スユルチ山宮(ギリシャ)

十九世―――アジチ四川成都、嘉陵江(中国、成都)

二十世―――大食作国京柱山宮(日本、徳島)

二十一世――大食作媛国赤首山宮(日本、徳島)

二十二世――天竺ヒマラヤ、カドマンツ(インド、カトマンズ)

二十三世――ボルネ国キニバル山宮(ボルネオ)

二十四世――パプァ国オラニア山宮(パプアニューギニア)

二十五世――天竺カラコルム山スリナガル宮(インド、カラコルム)

二十六世――ミヨイ国ヒルミ山宮(ミヨイ)

二十七世――アフリ国サマラ(アフリカ、サハラ)

二十八世――イタリ国ボロニヤ(イタリア、ボローニャ)

二十九世――イタリア国ボロニヤ(イタリア、ボローニャ)

三十世―――タミアラ国アメラヒ山宮(タミアラ)

三十一世――ミヨイ国ヒワワシ山宮(ミヨイ)

三十二世――タミアラ国アメラヒ山宮(タミアラ)

三十三世――天越根中日玉国乗鞍岳日影(日本、岐阜)

まさに世界中に天皇の御陵があるといってもいいだろう。上古時代天皇は、世界中から皇后を選び、なおかつ御陵の場所も世界中から選ばれていたのである。世界国家ならではのことであろう。

上古一代・万国神葬図

 

  1. アサヒメルシメヤマ改めフクミミフジ山(富士山)
  2. 天国の穴門(山口県)神王山
  3. 葦倉(岐阜県白川村葦倉)
  4. ワシウ宮、鷲羽山(岡山県)
  5. ミヨイ国のミヨイ峰塚
  6. 壇王国(朝鮮)の日本元岩
  7. カムチャッカのクリユチェフ山
  8. 天竺、エベレスト山宮のタカスエ(高末)
  9. 台湾、日高山宮(新高山)
  10. 武蔵のサキタマ(埼玉)
  11. 北米シェラネブ山脈ホイトニ山のモンテリ
  12. 南米のコロンビアのボゴダ
  13. オストラリ・アルプ山
  14. 富士二ヰヤの天神(魚津市金太郎温泉)
  15. ハミル高原(パミール高原)
  16. アシクラ(岐阜県白川村葦倉)
  17. オーストラリアのケスソシ(不明)
  18. ヨロバ(ヨーロッパ)、テマウド山(不明)
  19. 富士山(駿東部)、須走(スバシリ)
  20. ヨモツ国ヨウアン(ギリシャ、イオニア)
  21. 豊日別国(大分県)の万年宮(万年山)

*神葬図上の丸数字は、葬られた天皇が何世であるかを表す。また、( )内は現在の地域名を表す。

上古2代・万国神葬図

 

  1. 越根中国トトノヤマ(立山)①(皇后)石川県白峰
  2. アジチ国天竺カンチェン山宮(エベレストの東のカンチェンジェンガ山)
  3. 道路奥蔵王山宮(蔵王)
  4. 伊勢津国元取山宮(伊勢)
  5. 滝宮山(不明)
  6. 天越根中日玉国ニヰヤの天神
  7. ヨモツ国モンブラン山宮(スイス)
  8. ヨモツ国モンブラン山宮(スイス)
  9. ヒナタエビルス国アコンカグア山宮(南米、サンチアゴ近く)
  10. 台湾ニイタカ山宮(台湾)
  11. インドのエウスト山(台湾)
  12. 勢津媛国の見大山宮(台湾)
  13. アフアリ国、アトラス山アル(アフリカ)
  14. ヒナタエビルス国アンデス山ラパス(南米、アンデス)
  15. オストラリ国ヘルフ山メルボルン宮(オーストラリア、メルボルン)
  16. ヒウケエビルス国マッキンレ山宮(アメリカ、マッキンリー)
  17. ヒウケエリルス国ロキ山宮(アメリカ、ロッキー山脈)
  18. アジチヨアン国スユルチ山宮(ギリシャ)
  19. アジチ四川成都、嘉陵江(中国、成都)
  20. 大食作国京柱山宮(徳島県)
  21. 大食作媛国赤首山宮(徳島県)
  22. 天竺ヒマラヤ、カトマンツ(カトマンズ)
  23. ボルネ国キニバル山宮(ボルネオ、キナバル山)
  24. パプァ国オラニア山宮(パプアニューギニア)
  25. 天竺カラコルム山スリナガル宮(インド、カルコルム)
  26. ミヨイ国ヒルミ山宮
  27. アフリ国サマラ(アフリカ、サハラ)
  28. イタリ国ボロニヤ(イタリア、ボローニャ)
  29. 同上
  30. タミアラ国アメラヒ山宮
  31. 同上
  32. ミヨイ国ヒワワシ山宮
  33. 天越根中日玉国乗鞍岳日影(岐阜)

*神葬図上の丸数字は、葬られた天皇が何世であるかを表す。また、( )内は現在の地域名を表す

上古一代・日本神葬図

1. 富士山

2. 神王山

3 & 16 芦倉

4. 鷲羽山

10. 埼玉

14. 魚津の天神山

21. 須走

*神葬図上の丸数字は、葬られた天皇が何世であるかを表す。また、( )内は現在の地域名を表す

上古二代・日本神葬図

 

1. 立山に天皇

1’白峰(白山)に皇后

3. 蔵王山

4. 元取山

5. 滝宮山

6. 魚津の天神山

12. 見大山宮

20. 京柱峠に気万種蒔媛皇后宮

21. 京柱山

33. 乗鞍岳

*神葬図上の丸数字は、葬られた天皇が何世であるかを表す。また、( )内は現在の地域名を表す

 

不合朝以後、御陵は日本国内のみとなった

  不合朝になり、天皇の世界統治にかげりが出始めると、皇后が日本人の中からのみ選ばれるようになった。それに合わせるように、天皇の御陵の場所も日本国内に限られるようになる。 不合朝は一代にひとりの天皇である。したがって御陵は七十二か所となる。そのすべては判断していないが、わかる限りを現在の日本の地図に書き込んでみた。ほとんど全国を網羅しているのがわかる。しかし、実際には不合朝だけでなく、上古時代の天皇の御陵も日本国内に多数あったのだから、その総数は膨大なものになる。 上古の御陵の場所もそうであったが、不合朝の御陵も山が多い。日本では古くから山岳信仰があり、山をご神体として祭る神社も多い。また、山は死者の行く場所と考える習慣も、地方によっては根強く残っている。 こうしたことも、多くの山が超古代の天皇の御陵であるという意識が残っているためなのかもしれない。

 

神葬の場所や年忌祭りの時期には細かい取り決めが

  竹内文書では、死ぬことを「神幽る」、神葬を「神葬」と表現している。これは人間が、神の直系の子孫であることを表すためである。

現代でも葬儀に関しては、さまざまな決まりごとがあるように、超古代でも神葬に当たってはさまざまな約束ごとがあった。

「天日豊本黄人皇主天皇、即位三百十億年六月二十六日、詔して定む。先の代々、天国神州、天皇初め上下民・支国五色人等よ。神幽りし體骸を神に葬るを神勅に定む。神幽る體骸を峰に葬る一年祭、三年祭、五年祭に神骨體を造りして、神明を神代文字にてミドジ(凹字)刻り付け、天神人祖一神宮へ合せ祭り、十年祭、三十年祭、五十年祭、百年祭、千年祭するを定む」

 これは「神霊正典」による上古三代の記録である。ここには、はっきりと埋葬地は神勅によって定めるようにとの指示がある。上古時代世界各地に天皇の御陵が造られたが、これらすべて神勅によって決められていたのである。さらに、上古時代の御陵名に「山宮」がついているのも、当然のことであった。山の峯に葬るまで決まっていたからである。

 また、年忌祭りの時期にも細かい決まりがある。一年、三年、五年めにご神骨像が造られている。その後は、天神人祖一神宮(後の皇祖皇太神宮)において、十年、三十年、五十年、百年、千年と祭りをするのである。

 現在は人類の寿命が短くなってしまったため、親の五十回忌を行える人は少ないが、超古代の寿命を考えれば、千年祭りはたいていの子供が充分できることだったろう。

 しかし、こうした神葬のルールも、絶対的なものではなかった。その時代に合った方法が決められているのである。

不合朝の日本神葬図。不合朝になると日本国外に御陵を作ることはなくなった。

 

1. 平山大宮で神幽り

2. 万年山大宮の森

3. 武蔵の影信山宮

4. ⑦富山、鶴ヶ坂城(鵜坂)

5. 桃生郡カムタテ山(金華山)

6. 大分、御室山

7. 丹波、天橋立大宮

8.(⑧の分霊)相良

9. 王塚

10. 磐城のアカイ山

11. 朝日山

12. 富山、安ンネン山

13. 富士大峰宮

14. 信濃、コマ山(駒ヶ岳)

15. 愛媛、九万大宮

16. ⑲(皇后)

17. 大分、星岳大宮(星生山)

18. 岩槻大宮

19. 大分、直入宮城

20. 60 龍の崎(竜ヶ崎)

21. 大テラ(寺)

22. 40 伊豆田方天照山仙洞(天城山)

23. 大刈田岳の桃生塚

24. 加賀国美濃郡、安卓浦

25. 54 64 富山(54はトメル山、64はトメル家ミカド)

26. 富山、呉服宮

27. 山科山

28. 吾平山

29. 鹿子の漆塚(那須町)

30. 能登高クニ山仙洞(高洲山)

31. 能登宝龍山大宮仙洞(宝達山)

32. ニヰヤの富居山(富山)の根塚

33. 播磨ヒミヂ仙洞(姫路)

34. 薩摩朝日岳大宮仙洞(朝日山)

35. 36 鶴ヶ城仙洞(アンネン廟)

36. 赤城根

37. 五戸

38. 榛名山

39. ザオ山宮

40. クレハ宮仙洞

41. 出雲三瓶山大宮(三瓶山)

42. 土佐のハク光山大宮(雪光山)

43. 長門の天ノリ山大宮仙洞(天乞山)

44. 大隈の文球山宮(文球山)

45. 江尻宮仙洞(江尻山)

46. 仙洞(比工山)

47. 日高浦河のイヨトイ山仙洞(神威山)

48. 豊後久住宮(久山疑山)

49. 伊吹山宮仙洞(比工山)

50. 武蔵、所サワ仙洞(足大塚の所沢塚)

51. ニヰヤ五百井宮仙洞

52. 紀伊大雲取山宮仙洞

53. 常陸カクシマ大宮仙洞(二神山)

55. 丹波天野ニヰ宮仙洞(園部)

57. 磐城アカイ仙洞(アカイ水石山)

58. 富士山仙洞

59. 越中湊宮仙洞(二上山)

61. 常陸カクシマ、高天原外の天皇塚

62. 御皇城大宮(アンネボ北代)

63. クレハ宮仙洞

65. 常陸ニイハル大政都カ仙洞

66. 大和ムネヒ山宮臨幸仙洞(畝傍山)

67. 大隈桑原三像

68. クレハ大宮仙洞

69. 70大隈、文ゲン山大宮仙洞(御宝山)

71. 大和生駒山仙洞

72. 紀州竉山

*神葬図上の丸数字は、葬られた天皇が何世であるかを表す。また、( )内は現在の地域名を表す

 

神葬方法が来生の幸不幸を決定する

竹内文書には、人間に生まれ変わりがあることが書かれている。上古十代・高皇産霊天皇のときの、神葬についての詔にそのことが表れている。

「先の代天皇始め、上下民万国五色人神幽りし人體骸を地の中に奥都宮を造りて、神に葬ることに定む。神幽る體骸を葬る主始め、葬らるる神霊も、天然に神に葬り祭りしせよ。葬る主の顕世、安泰平安長寿孫まで安全するぞ。先の代に、支人の造り竝べし教法にて葬ると、生きるに惑ひ、死に迷ひ、万の災に会ふぞ。遍ボ短命、万苦しむぞ。先の代に悪人困難に生まれるぞ。神州人、万国五色人よ、天然の神に葬ることとせゐよ。守れよ。葬る主は、身體健全、富貴繁栄するぞ。万事言勝和合天職守るぞ」

 このころすでに、外国の葬儀方法が国内に入ってきていたのだろうか。その方法で死者を葬ることを堅く禁じている。それでは葬る人も葬られる人も不幸になるというのである。なかでも、死者が生まれ変わるときに、悪人になったり困難な人生を歩んだりすると指摘しているのは、非常に興味深い。つまり、竹内文書では生まれ変わりを認めているのである。

 それも、このように戒めに来生の話を使用するということは、生まれ変わりが広く一般に信仰されていたことを意味しているのである。

 天皇の世界統治が完全に崩壊していた不合朝五十九代、神葬方法について、天疎日向津比売天皇霊(天照大御神)より神勅が下っている。神勅を受けたのは、皇后宮糸玉姫命である。

「天国神州の天皇始め、上下万民万国五色人上下ワ、神幽る體骸を神に葬ることをせゐよ。先の代に必ず支のさまざまの教法造り竝べし教法に惑ふなよ、生に惑ふなよ、死るに迷ふなよ。迷ふて別教法に體骸を葬ると、国と家と子孫へ万災、遍ボ、悪人、又、(中略)、万病者に生まれるぞ。神州人よ、万国五色人よ。天然の神州の神に葬るこそ、神幽體骸の神霊、體骸を葬る顕代主の天の道にかなひし幽顕とも、転職天資ありと知れよ。神幽霊、四つに祭るを云う。幽顕も無極楽の世に生まれ出るぞ」

 上古十代とほぼ同じであるが、最後に「四つに祭るを云ふ」とあり、具体的な神葬方法として、四魂ごとの葬り方を教えている。四魂とは、一般的には人間の霊魂を働き毎に四つに分類したもののことをいうのだが、竹内文書では独特の意味が与えられているようだ。残念なことに、それぞれの魂が具体的に何を表すのかははっきりとしたことはわかっていない。以下、私のわかった限りの解釈を付記する。

① 荒魂は體骸に付けて葬れ。

これは、遺体の埋葬方法のことで、場所は神勅によって決定する。

② 奇魂は天神日の国へ葬れ。

これは魂を霊界に送る儀式の必要を説いているもので、ここでいう天神日の国とは魂の古里である神霊界を指す。いわゆる「お葬式」である。

③ 和魂は子孫の家に伝ふ。零牌に霊遷し祭る。

これは仏教風にいえば位牌のことである。位牌を開眼し、遺族が先祖の魂を祭ることの大切さを説いているのである。

④ 幸魂は皇祖皇太神宮へ神に合せ、百日目零遷し祭る。

これは、死後百日目に皇祖皇太神宮へ行き祭りを行うことを説いている。

以上の四つの法則を守ることによって、人は来生の不幸を回避することができるというのである。

現代の日本人は、生まれたときは神道でお宮参りし、結婚するときには教会でキリスト教式、そして、死ぬときは仏教という人が少なくない。現代社会に多くの不幸が生まれてしまう原因は、意外と神葬の方法を忘れてしまったところにあったかもしれない。

皇祖皇太神宮(茨城県北茨城市磯原)。竹内巨麿が明治43年に富山から移し再興した。