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竹内文書II 第1章(パート1)

なぜ日本が中心なのか

地球は宇宙の雛形

地球は宇宙の法則に則って存在している

この世に存在するあらゆる事物に対して、私たち人類はそこに何らかの法則性を見いだそうとしてきた。では、この宇宙や、私たちの住む地球全体を支配するような法則も存在するのだろうか。

 最近、物理学の世界では、フラクタル理論と呼ばれる考え方が注目を集めている。これは、全宇宙に存在するありとあらゆるものがフラクタル構造、すなわち相似形を成しているとする理論である。

  フラクタル理論によると、例えば宇宙の運営システムと地球の運営システムはお互いに相似形をなしているし、地球とその上に住む人間の自律機能も相似形である。そして人間とその個体を構成する細胞のひとつひとつの機能も相似形だというのだ。つまり、ミクロからマクロまで、ある法則に則ったパターンによって宇宙全体が成り立っているという理論である。

  私がこの理論の存在を知って真っ先に思ったのは、現代科学もやっとここまで追いついて来たか、ということだった。なぜなら、竹内文書に見られる、超古代の宇宙の法則こそ天・地・人を貫く相似形であり、フラクタル理論と同質もものだったからである。

  その証拠に、かすかながらもこの法則に則った超古代の文明の記憶を、今の日本人の考え方の中にも見つけることができる。

  たとえば、日本神道。これは、ありとあらゆるものに神性を見いだすいわゆる「アニミズム」である。西洋では神と人間との間に、作ったもの、作られたものという絶対的な開きがあるのに対し、日本では神の子孫が人間であり、したがって人間の中にも神性を見いだしている。そして租の感性は、人間だけではなく石にも樹木にもあらゆるものに、同じように神性を感じとったのである。このことは、古代の日本人が目に見える物質的な特徴だけで物事を判断せず、潜在的に内包されている神性の相似形を感じとっていた証ではないだろうか。

  これは潜在的な相似形の例だが、そのほかに顕在的な相似形の考え方もある。雛形という考え方がそれである。

  雛とは鳥のヒナ、ひな人形のヒナであり、ミニチュアを表している。この観点に立って世界をみると、驚くべきことに日本列島は世界の雛形であり、人間の体もまた世界の雛形になっているのである。なお、雛形理論については、詳しくは前著「超図解  竹内文書」をご参照いただきたい。

  だから、フラクタル理論の登場は、超古代文明が活用していた宇宙の法則に現代科学もやっと気がついた、つまり超古代文明に追いついてきた証だといえるだろう。

  さて、相似形が宇宙の法則であるならば、当然私たちが住むこの地球もその法則に則って存在しているはずである。

  このことは、宇宙が一定の周期をもった、大小の円運動から成っていることからも容易に推測できる。地球の自転・公転も、ほかの天体の動きも宇宙の法則に則っているからこそ、秩序が保たれているのである。

  では、この秩序が壊れるとどうなるか。もちろんそこには混乱が生じる。私はかねがね、現在地球上に争いが絶えず、あちこちで混乱が生じている原因はここにあるのではないかと思っていた。つまり、宇宙の法則から外れてしまっていることが、乱れを生じさせている原因なのである。

  では、地球上に宇宙の法則が反映している状態とは、どのような状態であるかを考えてみよう。

 

日本の天皇は世界の天皇としての役割をもつ

  地球を含む太陽系は、だれもが知っているように、太陽を中心に九つの惑星が楕円軌道を描いて回っている。そう、中心がしっかり定まっているのである。この中心は永遠に変わることがない。途中で中心がほかの惑星に移ったり、惑星が勝手に軌道を外れたりすることは決してない。これが太陽系に見るゆるぎなき宇宙の法則だ。

 

太陽系は太陽を中心に規則的な円運動を続けている。天皇も太陽系の太陽同様、かけがえのない存在である。

  それに対して現在の地球はどうだろうか。残念なことに、世界の秩序維持の中心となる国も、機関も存在していない。世界中の国々は皆自国を中心に世界を動かそうと、盛んに張り合っている。有史以来秩序が生まれるどころか混乱と争いの絶えることがない。宇宙の法則に照らし合わせたとき、要となるべき中心が定まっていないのである。

  では、地球の中心をどこにおけば秩序が生まれるのだろうか。超古代の繁栄を今に伝える竹内文書によると、その答えは「日本」だというのだ。

  現在学校で教えられる歴史しか知らない人には、あまたある国のなかでもとりわけ小さな日本が、世界の中心になるといっても、納得できないかもしれない。しかし、これはなにも私が日本人の身びいきでいっているのではない。私は竹内文書に出会って以来、日本や世界各地を実際に研究調査し、そこに書かれてあることの真偽を確かめてきた。そうした長年にわたる超古代史の研究の末の結論なのである。

  竹内文書を読むと、超古代の地球は日本の天皇を中心に、非常に秩序だった世界を築いていたことがわかる。それは、日本の天皇が日本一国のための天皇ではなく、世界の天皇としての役割を果たしていたことによる。

  日本の天皇には、地上の太陽としての役割が課せられていたのである。日本は諸外国と比べて太陽と非常に密接な関係をもっている。国名はもちろんのこと、日付変更線が定められてからは、まさに文字通り地球上で最も早く日出る国となっている。この日付変更線にしてもおもしろいのは、イギリスのグリニッジ天文台を通過する経線を基準に制定されたにもかかわらず、その結果が偶然にも、日本を日出る国たらしめているという事実である。

  どうしても私には、これらが単なる偶然とは思えない。人類が潜在意識のなかにもっている超古代の記憶が、無意識のうちにこんな選択をさせてしまうのではないだろうか。

 

天皇の言霊的な意味は、神と人をつなぐヒモロギである

「天皇」という称号がいつごろできたのかについては、歴史上さまざまな説がある。一説には「天皇」という称号は、道教の最高神である北極星を指す言葉から取られたものであるという。北極星は常に真北にあり、決して動かない天の中心であることから、天の統治者という意味が生まれたというのである。

  しかし、ここで忘れてはならない問題は、日本における「天皇」の読み方である。いまでこそ“てんのう”と読むが、古くは“すめらみこと”と読んでいた。そして、この“すめらみこと”という言葉にこそ、「天皇」という称号の謎を解くカギが隠されているのである。

  日本には古くから言霊信仰が存在する。言葉の一音一音が、それぞれ霊的な意味をもっているとするものだ。

  こうした信仰は今でも、子供の名前をつけるときによく表れる。どの字を当てるのか、それをどう読ませるかなどは日本人は非常にこだわる。そして、名前の読み方を間違われたり、字を書き違えたりされたりすることを極端に嫌う。これらは、言霊信仰が日本人の価値観にしっかりと根付いていることを表している。また、先祖や両親から一字をもらうのも、その字とともに先祖の加護や、秘められた力を得るためであった。

  しかたって、「天皇」も“てんのう”と読むか“すめらみこと”と読むかによって、そこに託された意味に大きな違いが生ずるのである。

では、“すめらみこと”という言葉には、どのような意味が込められているのだろうか。

“すめらみこと”は大きくは“すめら”と“みこと”に分けられる。まず“すめら”から見てみよう。

“す”は大根の鬆、川の中州、など中心の意味をもつ。また、素直の素、垂直のスなど天と結ぶ垂線や、統べるという言葉に見られるように、まとめる力をも意味している。“め”は、台風の目、要のメのようにものごとの中心点を表すとともに、植物の芽のように成長に向かうエネルギーを意味している。“ら”は、照らすのラ、爛々と輝くのラであり、光り、輝きを意味することから太陽を指すとされている。この“ら”であるが、古代エジプトで太陽神をラーと称したのも、実はこうした日本語から来ているのである。

そして、ひとつひとつの音がもつ意味を含んだ“すめら”全体としては「太陽に真っすぐにつながるものを統べる」という意味になる。

同様に、“みこと”についても見てみよう。

“み”は三であり、身、実といったそのものの中心となる大事な部分を意味する。“こ”は九であり、陽の極まりを表すとともに、「強固」のように丈夫でしっかりと固まっている状態を意味している。“と”は、人であり、人柄や性質といった意味をもつ。

したがって、“みこと”とは「大切な三つのことがしっかり固まった人」のことをさいているのである。この場合の「大切な三つのこと」というのは、思うこと、言うこと、行うことを指すといわれている。

鬆(す)は大根などの中心部にできる穴を、鳥などの巣は生活や成長の中心となる場を意味している。鬆・巣ともに中心という意味を含んでいる。

 

スメラの図解

以上の言霊的解釈から、古代の天皇、すなわち、“すめらみこと”とは、太陽(神)につながる人々(五色人)を統べることのできる人格者の称号であったことがお分りいただけたと思う。 超古代の地球では、日本の天皇ももと、宇宙の法則に則った秩序ある統治が行われていた。天皇はその持てる人格ゆえ全世界の五色人の尊敬を集めた。天皇は天の意志を地上に繁栄させるヒモロギであり、神と人々をつなぐ存在だったのである。 では、天皇がどうやって地球を統治していたのか、具体的に紹介していこう。

 

天皇(スメラミコト)の言霊的解釈

「スメラミコト」という意味の、ひとつひとつの音に下のような意味がある。さらに、「スメラ」と「ミコト」もそれぞれ固有の意味をもち、全体として天皇という概念を表している。

 

 

 

 

皇祖皇太神宮には、太古の天皇の骨を材料に作りあげたご神骨像が神宝として伝わっている。 写真は上古一代天日豊本葦牙気皇美二神(あまひとよもとあしかびきみのかみ)のご神骨像。


超古代の天皇は天空浮船で世界中を巡った

万国巡幸は世界国家の内閣編成が目的

超古代の天皇は「万国巡幸」と称し、世界中をくまなく巡られていた。現在も天皇はさまざまな公務で日本国内はもとより、世界各地を訪問なさっている。しかし、超古代の万国巡幸と現代の訪問とでは、その目的がまったく違っていた。

  まず、竹内文書の記録を見てみよう。最初の万国巡幸は、上古三代・天日豊本黄人皇主天皇により行われている。

「天日豊本黄人皇主天皇即位三億万歳、詔して大海原乗舟造知尊、天日竜舟上知主尊、海川舟造る。大舟八艘小舟十六艘造りて、万国御巡幸、天皇自身天の浮艘乗り、阿支胃州乃鎮江着、保定御臨幸、支那王磐邦王民、天皇御膳に唐みしを献ず。天皇詔して支那王国に命ず」

  天皇は大海原乗舟造知尊と天日竜舟上知主尊に命じて、万国巡幸用に海を行くための大船を八艘、川を行くための小船を一六隻造らせている。そして、自らは天空浮船に乗って、万国巡幸を行ったのである。そして、訪問先でその国の王を任命した。

上古第3代・天日豊本黄人皇主神天皇の万国巡幸図

1. 鎮江チェンヤン(南京のそば)

2. 保定パオチン(北京と天津のそば)

3. イタリアのウェネチヤ(ベニスのこと)

4. アフリカのネネアホマ浜(ギニアの近く)

5. オセアニアのメルボルン浜

6. 南アメリカのラプラタ浜

7. 北米カナダのニトアーク浜(アヒヲマアクリと命名、カナシイ国と命名)

8. 常陸国おつき浜

9. 富山の天神人祖一神宮

 

このときの訪問では、阿支胃州支部(中国)のほかに、天支予母都州(ヨーロッパ)、天支天夫利降(アフリカ)、天支尾世阿児安州(オセアニア)、天支日前多天恵比寿州(南アメリカ)、天支日後天恵比州(北アメリカ)を巡って、それぞれの地で王を任命している。

  また、この巡幸には、   「万国巡幸始めより、一九五〇年目のカナメツキマドノミツヒ(十月十三日)、万国より、吉道路常磐国大付浜に帰京」   とあり、何と千九百五十もの歳月をかけていることがわかっている。当時の天皇の寿命がいくら長かったとしても、かなりの長旅であったことに変わりはない。それほどの時間を費やしてまで「万国巡幸」はなぜ行われたのだろうか。

  万国巡幸は上古三代・天日豊本黄人皇主天皇に始まって、神倭十二代・景行天皇の御代まで続く。途中巡幸を行わなかった天皇もいないわけではないが、原則として一代に一度は必ず行われている。

  超古代の天皇にとって、一代一度の大事業だった万国巡幸は、単なる親善外交でも、各国視察の旅でもなかった。一番の目的は、天日豊本黄人皇主天皇の例でわかるように、各地の王(民主)の任命にあった。

  超古代において、天皇が何世にもわたって襲名をいていたことはすでに述べた。私はこの襲名と万国巡幸には、大きなかかわりがあるのではかいかと思っている。なぜなら、同じ天皇で統治する一代に一度、万国巡幸が行われているからである。

  各地の王を天皇が直接任命して万国の統治を行う。これは現代の政治にも見られるシステムである。

  たとえば日本では、最高権を有する総理大臣が、各部門の大臣を任命し、国を治める。総理大臣が交替するたび、内閣は編成し直される。超古代でも天皇の代が変わるたび、万国の王は新しく任命し直されていたのではないだろうか。もちろん、一代の治世中であっても、不正や問題が生じた場合は王の交替が記録されているから、一代という枠はあくまでも大臣の任期のようなものとお考えいただければいいだろう。

  万国巡幸には遠隔地への文化の伝達や新しく即位した天皇のお披露目、そして地球が天変地異に見舞われた際には万民を励ます意味などもあったが、これからはあくまで二次的なもので、主目的は万国の王の任命にあった。つまり、万国巡幸は世界国家の新内閣を、天皇が直接編成するための旅である。

 

万国巡幸を可能にした天空浮船

天皇たったひとりで、この広い地球を全て統治することができた要因のひとつに、天空浮船の存在がある。 天空浮船には、円盤型、ロケット型、船型、ジェット機型の四種類があり、目的によって使い分けられていた。そのうち万国巡幸で使用されたのは主に船型のものであると思われる。このことは世界各地の遺跡の壁画などに、太陽神の乗り物としての船が見られることからもわかる。エジプトの太陽の船はその最もよい例である。 この場合の天空浮船はデモンストレーション用、つまり、権威の象徴として見せるためのものであった。華々しく飾った船型の天空浮船で空から入国する天皇を、各国の五色人は神を迎えるかのように熱狂的に迎えたことであろう。天空浮船は、天皇が天日玉国からきた神人の直系であることを、強くアピールする最も重要なアイテムであった。 しかし、行政指導者としての実務活動には、いわば大統領専用機のような、実用的天空浮船がもっぱら利用されていたと考えられる。

万国巡幸は非常に長い年月を費やして行われた。それも、天皇の治世を支える多くの臣下たちも連れての旅である。当然万国の政庁である日本は、人材的にも保安上でも手薄な状態になる。まして、天皇が万国巡幸を行うのは、即位して間もない不安定な時期と決まっている。 そのような状況下でも、天皇が安心して万国巡幸を行えたのは、天空浮船の存在によるところが大きい。天空浮船さえあれば、天皇は世界中どこで何があっても、瞬時にして現地に赴くことができたからだ。 この場合に使用された天空浮船は、ジェット機型のようなスピード重視のものであろう。つまり、万国巡幸の際には、目的別に何機かの天空浮船が母船に積まれ、いざというときのために準備されていたのだ。 そうした高度なテクノロジーが支えとなって、天皇の万国巡幸を可能たらしめたのである。

南米コロンビアのボゴダで出土した黄金のジェット機(上)と、東京の天神人祖一神宮に祭られている天空浮船(下)。いずれも超古代の天皇が万国巡幸に使った天空浮船をかたどったと思われる。

 

万国巡幸の証拠をイギリスで発見

イギリスにも古代の飛行場を示す地名「ハネ」があった!

  超古代の万国巡幸を今に伝えるものとして、先に挙げた「太陽の船」のほかに、古代の飛行場跡地がある。

  超古代の飛行場は、滑走路に現代のようにコンクリートを用いていないため、発見は難しい。

  前著で詳しく述べたが、日本の場合は、「ハネ(羽根・羽)」のつく地名が飛行場の跡地であることがわかっているので、比較的発見しやすい。しかし、これが世界となると、言葉の変化も激しく、日本国内のようにはいかない。今までの調査で唯一「ハネ」のつく地名が見つかったのは、モーゼの十戒で有名なシナイ山のふもとにある「マハネ」だけであった。

  それが、今年(一九九五年)の五月イギリスへ行ったおり、偶然にも「ハネ」のつく地名を発見することができたのだ。

  私は現在、宇宙医学研究院を開き、宇宙エネルギーの入った健康器具を脊椎の矯正を中心とした施療を行っている。そのため日本全国をはじめ、世界各国へ治療で赴くことも多く、その機会を利用して各地で竹内文書を裏づけるような調査も行ってきた。

  五月にイギリスのカンタベリー地方へ行ったのも、治療を目的にした旅であった。友人の紹介ということもあり、私は相手先の住所もよく調べないままに旅だってしまった。そして、現地でカルテに住所を書いてもらったとき、自分のいる場所が「Herne」という地名だということを初めて知ったのだった。

  どのように発音するのか尋ねたところ、「He」を「ハ」と発音しながら舌を巻き上顎につけ「r」を続けて発音する。つぎに「ne」はそのまま「ネ」と発音するのである。この発音を聞いて私は非常に驚いた。多少巻き舌ではあるが、はっきりと「ハネ」と聞こえたのである。

  これは日本語の「羽根」そのままではないか。私はそれまで、イギリスに日本語の羽根という地名がそのまま残っているとは、一度も考えたことがなかった。

  今まで、天空浮船は世界中を飛んでいたのだから、イギリスにも超古代の飛行場は必ずあるはずだと思っていたが、世界地図では「ハネ」という地名は見つけられず、「マハネ」の例はむしろ特殊な例だと思い始めていたのだ。

イギリスのカンタベリー地方で「羽根」という名がつく地名を発見!ストール川の近くであり、日本の「羽根」と地理的条件は同じだった。超古代の天皇が天空浮船でこの地を訪れた証となるのである。

 

患者の言葉に思わず外へ飛び出し、HERNEの地形を確認する筆者。

  私は、この地名を知ってすぐ家の外に飛び出した。すると、何とそこには、美しい丘陵地帯の麓に、見渡す限りの真っ平らな麦畑が広がっているではないか。さらに、麦畑が広がっているではないか。さらに、麦畑の広さは、幅二百メートル、長さ三キロメートルに渡っていた。これは超古代の滑走路の標準的な大きさである。丘と丘の間に位置するため、風の影響も少なく、飛行場にするにはまさに最高の立地条件である。

  日本では現在使われている飛行場が、超古代の飛行場と非常に近い位置にあるが、これは立地条件を考えればむしろ当然のことといえる。ここイギリスでもそれは同じであり、「Herne」から東方わずか十五キロの所には、ケント国際空港が位置している。

HERNE ケント国際空港

  さらに興味深いことに、ここの土質は非常に硬く、掘り起こした土のかたまりを両手で割ろうとしても割れないほどである。実際、私も土を手にとって調べてみたが、なるほど驚くほど固い土であった。そのため、この土地で造園するには、いろいろと土を柔らかくする工夫がなされているという。庭師のなかには、まるで人工的に何かを混ぜてわざと土を固めているようだという人までいるのだ。   この土地が超古代の飛行場だとすれば、庭師は知らずに真実を言い当てていたことになる。なぜなら超古代の飛行場造りには、コンクリートやアスファルトなどを用いずに、土にニガリなどを混ぜて、天空浮船の発着に耐えうるほど地面を堅く整備する技術が用いられていたからである。

  私はその土を分析するため、持ち帰った。今後調査が進み結果がはっきりすれば、超古代の進んだ科学技術の一端が明らかになることだろう。

 

古代の飛行場を表す「ハネ」のつく地名をロンドンでも発見

  私が「ハネ」という地名を知って興奮していると、別の患者は「ハネ」と呼ばれる土地ならロンドンにもあると教えてくれた。

  私は急いで地図を買いに走った。ロンドンと言えば、天皇の万国巡幸にも登場する。もし、ロンドンで「ハネ」が見つかれば、竹内文書の記録がまたひとつ立証されることになるのである。   万国巡幸にロンドンが登場するには記録はふたつ。不合朝十六代と二十三代である。

「天皇即位百十年ミナツ月立六日(六月六日)詔して万国巡幸す。支クニ、ヨモツクニ改め、ヨイロバ国、フランス国、バリイ川水門に天降り、天皇大前にランス氏参朝、ナンシ氏、カレ氏、ベルリ氏、マトリイ氏、ロント氏、ウィー氏、フカレスト氏、五色人王外八名礼拝す。天皇詔して居る所の王に任す、其氏王の名を、住み居る所の地名につける」

  これは不合朝一六代・産門真幸天皇の記録である。ここに登場する「ロント氏」の名がロンドンになったのである。ここではヨーロッパの王がパリのバリイ川飛行場に降り立った天皇の元に集まったことが書かれている。ロント氏もロンドンの飛行場からやって来たのであろう。

  もうひとつの記録は、不合朝二十三代・天饒国饒狭真都国足天皇の御代である。

「天皇即位七十五年イヤヨ月篭二日(三月二十二日)、詔して万国巡幸、ヒウケエビルス国タマコ水門天降り、天皇即位百八十六年ケサリ月円五日(二月十五日)、ヨモツ国改めヨイロバ国、イギシル改めイリス国、プリマス水門天降り、天皇御前に五色人ロント氏、スター氏、ガム氏、コイク氏、リール氏、他十三名拝礼ミツギ物を捧る。天皇詔して五色人王を、居る所の王に任ず。喜びて大楽をし、花を棒奉」

  ロント氏、ここにも登場している。このように万国巡幸で近くの国に訪れた天皇に会うため、各地の飛行場から王たちは集まったのであろう。ロンドンの飛行場は、この記録を裏づけるものなのだ。「Herne」は確かにロンドンに滞在した。それもロンドンの中心地、ロンドン橋から南に約5.5キロメートルの所であった。正確には「Herne Hill」という。実際に現場を調査してみないと詳しいことはいえないが、地図で見る限りでは幅三百メートル、長さ一キロメートルぐらいの滑走路に適した場所があるように見受けられた。

不合23代・天饒国饒狭真都国足天皇の万国巡幸図

  1. タコマ天降即位75年3月22日
  2. 即位186年2月15日  プリマス港天降る  ロント氏、スター氏、ガム氏、コイク氏、リール氏ほか13名、貢物、拝礼

ロンドンにも周辺でも、テームズ川の近くに「羽根」のつく地名があった。地形的にも「羽根」の条件を備えている。

  カンタベリーからロンドンまでが含まれる地図を机に広げ、今回の発見を見返してみると、もうひとつさらに面白いことがわかってきた。ロンドンの「Herne」は有名なテムズ川のすぐ近くである。つまり、超古代の飛行場のタイプとして最も多く見られる河川式飛行場であった。カンタベリーの「Herne」もストール川沿いにある。そして、そのストール川を左手にしてさかのぼると、今度は右手にテームズ川が見えてくるのである。つまり、川を目印にふたつの「Herne」は結ばれていたのである。これなら天空浮船が、迷うことなくロンドンへ向かうことができる。

  さらに、ロンドンの「Herne Hill」の近くにも現代の飛行場がある。ロンドン橋の東方十キロメートル、現在のロンドン・シティ・エアポートである。これだけ証拠がそろえば十分である。「Herne」は間違いなくイギリスに残る「羽根」だったのである。

カンタベリーのハネとロンドンのハネとは、ともに古代飛行場としての要件を満たしていた。

超古代、天皇は天空浮船で自由に世界を回り、各地のハネ(飛行場)へ降り立った。

 

イギリスに残る日本の言葉が万国巡幸を裏づける

  イギリスには「ハネ」の他にも、日本語を残しているものが多くあることもわかった。

  そのいくつかをご紹介しよう。私が、「Herne=羽根」の証拠を見つけだそうと近くを歩いていたときだった。超古代の飛行場跡と思われる所のすぐ近くに、「Mill」という名の丘があることがわかった。発音は日本語の「見る」とまったく同じであった。

  私は、これだと思った。というのも、日本の天空浮船の飛行場近くにも「見る」とういう地名が残っているからである。一例として静岡県は伊豆半島にある青羽根、そこの近くに「雲見」という地名がある。

  航空機の発着には天候が大きく作用する。それは超古代も現在も変わらない。風を知り、雲を見るこことは飛行場には欠かせないことである。

  「Mill」にあったのは、「Wind Mill」という巨大な風車であった。「Mill」は現在、風力を利用した粉引きを指す言葉として使われているが、もとはその名の通りこの風車で風を見たのであろう。そうでなければ丘自体が「Mill」という名を持っているのは不自然であるし、ロンドンの「ハネ」の近くに、管制塔を思わせる「Herne Mill」という場所があるのも説明がつかなくなる。

Herne Mill(羽根見る)の看板の前に立つ筆者

  また、私はかねがね、イギリスの「Kent」は「神土」、すなわち神の土地という意味の日本語が変化したものではないかと思っていた。そこでこのことをイギリス人の人に尋ねてみることにした。

  最初のうちは、意味などわからないといっていたが、私が「Land of God」という意味ではないかと聞くと、ようやく思い出してくれた。その答えはなんと「Garden of Eden」、エデンの園という意味だというのである。やはり「Kent」は「神土」だったのである。そうなると、カンタベリーは神土辺り(カントベリ)となり、ここでも地形と名称が日本語の意味とぴったり一致してくるのである。

  また、私が泊まっていたところの近くに、日本式の茅葺き屋根とそっくりの家があったので、珍しさから尋ねてみると、現在はレンガ造りだが昔は木造建築で、日本の家と非常によく似ていたという。そこで、屋根の部分を何というかと聞くと「サッシ」、屋根を葺いている草はこの近くの川岸に群生する草で「ラッシ」というと教えてくれた。川まで行って確かめたわけではないが、日本でいう「葦」のことらしい。

  ハネのときもそうであったが、ここの地方では「r」が入りやすいらしい。つまり、舌が上顎につける発音になりやすいのである。「ラッシ」から「r」を取れば、「アシ」である。日本語の葦そのままではないか。

  さらに、日本語に帰国してから知人にこの話をすると、前出の「サッシ」は「ヒサシ(庇)」、つまり屋根を意味する日本語だと指摘してくれた。   施寮を目的とした、たった五日間の滞在であったが、宇宙考古学者としても実り多い旅となった。イギリスは私の想像以上に、超古代の記憶を色濃く残してくれている国だったのである。

カンタベリー地方で見つけた藁葺き屋根の民家。屋根の部分は、日本語の庇(ひさし)を思わせる名「サッシ」と呼ばれる。また、屋根の材料には、葦を思わせる「ラッシ」と呼ばれる水草が使用されている。

 

地球国家の存在を今に伝えるインカの祭りとチブラン古墳

インカのの祭りが日本の古墳に描かれていた

  古代の遺跡は、多くのことを私たちに語りかけている。意識を向けてさえいれば、ちょっとしたきっかけでその声が聞こえてくる。私が、竹内文書に書かれていた超古代の記録を真実と確信するような証拠を得られたのも、そうした声に導かれた結果である。そのひとつをご紹介しよう。

  ある雑誌で、インカに伝わる「太陽の祭り」と呼ばれる神祭りの特集記事を読んだ時のことである。

  それは美しいカラーグラビアを中心に構成された記事だった。パラパラと見て行くうちに、一枚のグラビアに私の目は吸い寄せられた。見開きを使ったそのグラビアには、青空をバックにインカの祭り装束を身にまとった男が、天に向かって両手を揚げ祈りを捧げていた。この構図は確かにどこかで見たことがある。記憶を検索するうちに、ひとつの壁画が浮かび上がった。それは、熊本県山鹿市にあるチブサン古墳の壁画であった。

  九州には装飾古墳が多い。幾何学模様から写実的なものまでの時代によってさまざまだが、それらの装飾壁画が何を表現したものなのか、そのほとんどはいまだに解明されていない。   チブサン古墳は前方後円墳で、壁画は横穴式石室の羨道を抜けた後室、家形石棺と呼ばれる部屋の内壁に描かれている。不思議な人物像が描かれていることから、宇宙人を描いたともいわれる有名な壁画だ。   インカの太陽の祭りと九州のチブサン古墳。一見、何の関係性もないこのふたつがまったく同じ構図を有しているのである。

不合朝12代、弥広殿作天皇の万国巡幸図

このときの巡幸で天皇はインカ文明の地ラパスを訪れている。チブサン古墳とインカの太陽の祭りをつなぐ証拠のひとつである。

  1. シナの大臣の子28名をシナの王とし、五色人の司となる68皇子皇女を万国の王に任じ派遣した。阿蘇大宮に臨幸仙洞。
  1. イリマニ山大宮天降る。ラパス王はじめ10名拝礼、11名南アメリカの王に任命される。

  次の図を見ていただきたい。まず、頭に冠をいただき両手を天高く上げている人物。その脇に立てられた棒、そしてその隣に描かれた対角線で仕切られたブロックごとに色分けされた四角形。インカとチブサンの人物の姿、そして棒の存在に類似点がある。その隣の四角形もよく見ると、インカの祭り装束の柄の中にはっきりと描かれていた。

インカに伝わる太陽の祭り。両脇を天に向かって上げ、祈りを捧げている男の隣に立てられた棒には、五色人を表したと思われる五色の布飾りがついている。

チブサン古墳(熊本県山鹿市)の壁画。冠を戴いた人間が両手を上げている姿、その隣に立てられた棒は、インカの祭りと共通するものである。チブサン古墳で右端に見える図形は、インカの祭りで手を上げている人物が着ている衣装にも見られる図形である。

 

超古代、太陽の祭りは世界中で行われていた

  さらに決定的だったのは、チブサン古墳で人物の頭上に描かれた七つの円文である。何を描いたものなのか日本の調査研究ではわからなかったが、答えはプレインカの神話にあった。プレインカの神話では、神々の故郷として具体的にプレアデス星団の名を挙げている。プレアデス星団と言えば、ギリシャ神話でゼウスの七人の娘とされているように、七つ星の星団として有名である。   プレアデスの七つ星と、チブサン古墳の七つの円文。この一致から考えると、チブサン古墳に描かれているのも、神々の故郷であるプレアデス星団だということになる。

  竹内文書で神々の故郷といえば、天日玉国。チブサン古墳の壁画を描いた人たちも、天日玉国の記憶を、神祭りに託して伝承してきたのだろう。   天皇が万国巡幸の際に、文化とともに神祭りの行い方も指導していたであろうことは想像に難くない。実際、インカの地に天皇が巡幸の途中で立ち寄った記録も、竹内文書には残っている。   このように竹内文書に残る万国巡幸の記録は、超古代に人類が天皇を中心に秩序ある世界を築いていたことを今に伝える貴重な歴史資料なのである。   では、各代ごとに行われた万国巡幸を見てみよう。

チブサン古墳に描かれているのはプレアデス星団なのだろうか。